《自由広場》
さ ま よ う 遺 骨
田中 富榮(徳島県徳島市)
10歳年上の叔母(父の妹)は終戦の年が20歳だった。戦後復員してきた隣町の青年とお見合いをして即結婚を決めた。私が理由を聞くと,相手の青年が大きなおむすびを昼ごはんに持ってきており,そのおむすびが銀飯(白米)だったそうである。この人と結婚したら米のごはんが食べられると思った叔母は迷うことなく結婚を決めた。食糧不足で日本国中がどん底の生活にあえいでいた昭和21年であった。
21歳で嫁にいった船員のおじさんとは,その後の何十年間を仲睦まじく添い遂げた。しかし二人の間には子供がなかった。おじさんが87歳,叔母82歳のときに叔母が認知症になり,二人して施設へ入居したのである。そして2~3年経ったころ,おじさんが肝臓がんで死亡した。
おじさんには血縁者がおらず,お通夜に集まったのは叔母の身内の甥や姪7人だけが駆け付けた。翌日葬祭場での葬式は滞りなく終わったが,四十九日までの遺骨をどうするかが問題になった。施設で暮らしている叔母は,自分の夫の葬式をしていることもわからず,式場で眠っている状態であった。空家同然の叔母の家へ遺骨を置いておくこともできず,みんなで相談をした結果,四十九日までお寺に預かってもらえないだろうかということになった。
おじさんの家庭の事情を住職さんに話したところ,住職さんが「遺骨は預からないことにしています。四十九日までお寺に安置してくれと頼まれた遺骨が,うちの寺には今までに1つや2つではありません。ずらっと並んでいます。四十九日が来ても遺骨を引き取りに来てくれず,檀家の家に連絡がつかず困っているのです。お宅の事情がよくわかりましたので,それだったらみなさんがそろっている今日のうちに四十九日も納骨も全部いたしましょう」との思いがけない返事。私たちもお寺の困っている事情がよくわかったので,すべての法事を今日していただけるようお願いした。
横なぐりのみぞれ雪が降っている2月の寒い日であった。焼き場へ行っておじさんの遺骨を持って帰り,即「むかわり」の法事をした。隣の部屋でご馳走を食べて一休みし,続いて四十九日の法事が始まったのである。おじさんの先祖代々の墓地は知っていても,お墓がどのあたりにあるやらわからず,叔母に尋ねてもわからず,法事をしている間に甥二人が墓地を駆けずり回りやっと見つけて納骨に間に合った。
冬の日は短く,四十九日の法事が終わるころには外は暮れかかっていた。ホテルが準備してくれたバスに急いで乗って次は墓地へと走った。叔母をバスの中に一人残しておくわけにもいかず私が残っていた。「叔母さん,みんながおじさんの遺骨を納めに墓地へ行ってくれていますよ」と話しかけても通じないのが悲しかった。
納骨も終わり,一連の死後の後始末はすべて済ませることができた。そして今後のことを住職さんと話し合い,おじさんは永代供養にしてもらった。続いてまた四十九日のご馳走が並んでいる。私は見ただけで満腹になった。こんなあわただしいお葬式は聞いたことがない。何もかも終ったときは夜の11時を過ぎて外は真っ暗。叔母を施設に送り届け,私たちはわが家へと帰っていったのである。その叔母も3年前にこの世を去った。
核家族化が定着した昨今,私たち世代(80歳前後)の者は大半が夫婦だけとか独居暮らしになっている。そして自分の老後を子供に頼れる時代ではない。「主人と話し合い,子供に迷惑をかけたくないから永代供養にしてもらいました。人生ぎりぎりまで自分のことは自分でする」と友達が寄るとそんな話になるのである。昭和初期の家族制度が確立していた時代に生まれ育ち,戦争,敗戦,戦後と激しく変化してゆく日本社会に振り回され,戦争で親を亡くし,戦災孤児が続出した世代が私たちなのである。「人生自分以外に頼るものはいない」「自分を助けるものは自分だけ」を座右の銘にして私は生きてきた。そしてできるだけ人に迷惑をかけない人間でありたいと思っている。私は60歳のとき,人間一寸先は闇であるから何が起こるかわからないと思い,自分の死後の始末を考えて永代供養と「遍照院看詠富華大姉」と戒名を付けていただき,死後自分が入る納骨堂も見学している。
後期高齢者の真っ只中に自分もどっぷり浸かって感じるのだが,退職後の60歳からの老後は長い。どんな小さなことでもいい生きがいを見つけ,それに向かって自分が打ち込めるものを持てば人生が楽しくボケ防止にもなる。私は今生け花教室に通っているが,夢中になって活けた花を先生がほめてくださったときは本当に嬉しく,長生きして夢をかなえたいと心がキラキラ輝く。また自分のためだけでなく人のために役に立ちたいと思い,わが家を知り合いのお遍路さんに一夜の宿として提供している。
さ ま よ う 遺 骨
田中 富榮(徳島県徳島市)
10歳年上の叔母(父の妹)は終戦の年が20歳だった。戦後復員してきた隣町の青年とお見合いをして即結婚を決めた。私が理由を聞くと,相手の青年が大きなおむすびを昼ごはんに持ってきており,そのおむすびが銀飯(白米)だったそうである。この人と結婚したら米のごはんが食べられると思った叔母は迷うことなく結婚を決めた。食糧不足で日本国中がどん底の生活にあえいでいた昭和21年であった。
21歳で嫁にいった船員のおじさんとは,その後の何十年間を仲睦まじく添い遂げた。しかし二人の間には子供がなかった。おじさんが87歳,叔母82歳のときに叔母が認知症になり,二人して施設へ入居したのである。そして2~3年経ったころ,おじさんが肝臓がんで死亡した。
おじさんには血縁者がおらず,お通夜に集まったのは叔母の身内の甥や姪7人だけが駆け付けた。翌日葬祭場での葬式は滞りなく終わったが,四十九日までの遺骨をどうするかが問題になった。施設で暮らしている叔母は,自分の夫の葬式をしていることもわからず,式場で眠っている状態であった。空家同然の叔母の家へ遺骨を置いておくこともできず,みんなで相談をした結果,四十九日までお寺に預かってもらえないだろうかということになった。
おじさんの家庭の事情を住職さんに話したところ,住職さんが「遺骨は預からないことにしています。四十九日までお寺に安置してくれと頼まれた遺骨が,うちの寺には今までに1つや2つではありません。ずらっと並んでいます。四十九日が来ても遺骨を引き取りに来てくれず,檀家の家に連絡がつかず困っているのです。お宅の事情がよくわかりましたので,それだったらみなさんがそろっている今日のうちに四十九日も納骨も全部いたしましょう」との思いがけない返事。私たちもお寺の困っている事情がよくわかったので,すべての法事を今日していただけるようお願いした。
横なぐりのみぞれ雪が降っている2月の寒い日であった。焼き場へ行っておじさんの遺骨を持って帰り,即「むかわり」の法事をした。隣の部屋でご馳走を食べて一休みし,続いて四十九日の法事が始まったのである。おじさんの先祖代々の墓地は知っていても,お墓がどのあたりにあるやらわからず,叔母に尋ねてもわからず,法事をしている間に甥二人が墓地を駆けずり回りやっと見つけて納骨に間に合った。
冬の日は短く,四十九日の法事が終わるころには外は暮れかかっていた。ホテルが準備してくれたバスに急いで乗って次は墓地へと走った。叔母をバスの中に一人残しておくわけにもいかず私が残っていた。「叔母さん,みんながおじさんの遺骨を納めに墓地へ行ってくれていますよ」と話しかけても通じないのが悲しかった。
納骨も終わり,一連の死後の後始末はすべて済ませることができた。そして今後のことを住職さんと話し合い,おじさんは永代供養にしてもらった。続いてまた四十九日のご馳走が並んでいる。私は見ただけで満腹になった。こんなあわただしいお葬式は聞いたことがない。何もかも終ったときは夜の11時を過ぎて外は真っ暗。叔母を施設に送り届け,私たちはわが家へと帰っていったのである。その叔母も3年前にこの世を去った。
核家族化が定着した昨今,私たち世代(80歳前後)の者は大半が夫婦だけとか独居暮らしになっている。そして自分の老後を子供に頼れる時代ではない。「主人と話し合い,子供に迷惑をかけたくないから永代供養にしてもらいました。人生ぎりぎりまで自分のことは自分でする」と友達が寄るとそんな話になるのである。昭和初期の家族制度が確立していた時代に生まれ育ち,戦争,敗戦,戦後と激しく変化してゆく日本社会に振り回され,戦争で親を亡くし,戦災孤児が続出した世代が私たちなのである。「人生自分以外に頼るものはいない」「自分を助けるものは自分だけ」を座右の銘にして私は生きてきた。そしてできるだけ人に迷惑をかけない人間でありたいと思っている。私は60歳のとき,人間一寸先は闇であるから何が起こるかわからないと思い,自分の死後の始末を考えて永代供養と「遍照院看詠富華大姉」と戒名を付けていただき,死後自分が入る納骨堂も見学している。
後期高齢者の真っ只中に自分もどっぷり浸かって感じるのだが,退職後の60歳からの老後は長い。どんな小さなことでもいい生きがいを見つけ,それに向かって自分が打ち込めるものを持てば人生が楽しくボケ防止にもなる。私は今生け花教室に通っているが,夢中になって活けた花を先生がほめてくださったときは本当に嬉しく,長生きして夢をかなえたいと心がキラキラ輝く。また自分のためだけでなく人のために役に立ちたいと思い,わが家を知り合いのお遍路さんに一夜の宿として提供している。
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