☆東日本大震災☆
犠牲になった人達とボランティア
郡 芳一(福島県南相馬市)
○山男の笑顔
山を始めた人は,誰しも,槍の穂先に立ちたいと思うだろう。また,某社の登山者に対するアンケートによると,行きたい山は,山頂が福島県にある飯豊山が圧倒的に多い。福島,山形,新潟に跨るこの飯豊連峰は,この季節,花と残雪を楽しむ縦走には少なくとも二泊三日を要する。どこから登っても日帰り登山は出来ない。
山の好きな彼は,飯豊山のガイドを娘さんと二人でしており,福島県側から山形,新潟の下山口へ,車を回して縦走登山者の手助けをしていた。
彼は,定年を待たずに職場を離れ,蔵王山麓に家を建てたが,冬の雪掻きに疲れた奥さんの話を聞き入れ,雪の降らない海抜21メートルの太平洋を直下に見下ろす岩壁の上に,再び新舎を構えた。
そこは集落から離れ,親子三人,名山には遠いが,時折,登山を楽しみ,世間の雑音から離れた生活を楽しんでいた。しかしそこ,鹿島に来て五年目,波の音にも慣れたころ,大震災による津波という不幸が待っていた。
他所から来たこともあり,町内には知人も少なく,事故後2~3日はガレキで近寄ることも出来ず,安否の確認も出来なかった。
同じ高台の山田神社は,海抜2~3メートルの八沢浦干拓集落40戸の避難所であり,約50名がそこに避難した。しかし助かったのはそのうちの2名で、他の人達は皆波に攫われてしまった。台地の高さは21メートルであるが,そこに生えている松の枝に付いていたビニール等から,津波と津波がぶつかり26~27メートルくらいあったと思われる。
一週間ぐらい経ってようやく訪ねてみると,土台だけを残して家は無くなっていた。そこには「父娘眠る」と書かれた小さな墓標があった。半年後,奥さんが千葉県銚子沖の漁網にかかっていて発見された。不幸に見舞われた親子三人がようやく一緒になることが出来た。
私は,この町に来て事故に遭い,知人も少なく,寂しく無縁仏になった,山男らしい,無口な彼の笑顔を忘れることは出来ない。この鹿島町からは永遠に忘れられることであろうが。
○同僚二人の死
私はこの災害で10人以上の親戚を失ったが,それ以上に,忘れられない人がいる。それは永年,職場で中心的に働いてくれた人。一人は3歳になる孫を連れ,二人目の出産のために里帰りした娘の世話をするため,早めに退職。自宅で母親,娘,孫そして生まれてくるはずの孫が犠牲になり,当人はまだ帰っていない。また,別の一人は,孫の面倒をみるためと災害の3年程前に退職した。彼女は自宅が原発20㎞圏内のため家族で仮設住宅に入ったが,放射能を恐れた孫達は他所に行き,仮設での独り暮らしを余儀なくされ,目標も失い,寂しさのあまりに,昨年の暮れ60歳を前にして自ら命を絶ってしまった。この二人とも,口数が少ないがよく気がつき,相手を思いやる,笑顔の美しい,会社のドル箱的存在であった。前者は天災,後者は原発の犠牲と直接の死因は違っても惜しまれる死であり,忘れられないことに変わりはない。
○ボランティアの温かい心
災害の年,放射能に汚染された南相馬に全国から,勇気を出して,多くのボランティアが応援に来てくれた。ガレキを片付けるに必要な重機は汚染されるからと借りられず,物資やガソリンも,それを運ぶ運転者が怖がり,また運送会社の方針もあったこととも思うが,届けられず,こちらから50~60㎞の隣地まで取りに行く状況であった。そんな中,水も電気,コンビニ等も無い,無い無いづくしの放射能が充満している中で一緒にガレキを片付け,仮設住宅を回って心のケアをしてくれた顔が今も鮮明に思い浮かぶ。震災後,早四年が経ったが,今も時折,その人達が南相馬を心配して全国から来て顔を出してくれている。「感謝」の一言があるのみである。
○被災は今も
確かに空気中の放射能は少なくなった。しかし,元に戻ったわけではない。集落70戸,今年は5月になるのに鯉のぼりを一つも見ることができない。山笑う季節になっても田圃に若葉も映らず,集落内で子供達の笑い声が聞こえることもない。子供達の半分以上が避難し,学校,職場の関係で,集落には永遠に戻らないだろう。
他にも問題は山積されている。それでも,国と東電は「事故は収束した」として忘れさせようとしている。原発の事故は,自然災害ではなく,人災であり,それが大きな生活圏を抹殺したことを忘れないでほしい。
犠牲になった人達とボランティア
郡 芳一(福島県南相馬市)
○山男の笑顔
山を始めた人は,誰しも,槍の穂先に立ちたいと思うだろう。また,某社の登山者に対するアンケートによると,行きたい山は,山頂が福島県にある飯豊山が圧倒的に多い。福島,山形,新潟に跨るこの飯豊連峰は,この季節,花と残雪を楽しむ縦走には少なくとも二泊三日を要する。どこから登っても日帰り登山は出来ない。
山の好きな彼は,飯豊山のガイドを娘さんと二人でしており,福島県側から山形,新潟の下山口へ,車を回して縦走登山者の手助けをしていた。
彼は,定年を待たずに職場を離れ,蔵王山麓に家を建てたが,冬の雪掻きに疲れた奥さんの話を聞き入れ,雪の降らない海抜21メートルの太平洋を直下に見下ろす岩壁の上に,再び新舎を構えた。
そこは集落から離れ,親子三人,名山には遠いが,時折,登山を楽しみ,世間の雑音から離れた生活を楽しんでいた。しかしそこ,鹿島に来て五年目,波の音にも慣れたころ,大震災による津波という不幸が待っていた。
他所から来たこともあり,町内には知人も少なく,事故後2~3日はガレキで近寄ることも出来ず,安否の確認も出来なかった。
同じ高台の山田神社は,海抜2~3メートルの八沢浦干拓集落40戸の避難所であり,約50名がそこに避難した。しかし助かったのはそのうちの2名で、他の人達は皆波に攫われてしまった。台地の高さは21メートルであるが,そこに生えている松の枝に付いていたビニール等から,津波と津波がぶつかり26~27メートルくらいあったと思われる。
一週間ぐらい経ってようやく訪ねてみると,土台だけを残して家は無くなっていた。そこには「父娘眠る」と書かれた小さな墓標があった。半年後,奥さんが千葉県銚子沖の漁網にかかっていて発見された。不幸に見舞われた親子三人がようやく一緒になることが出来た。
私は,この町に来て事故に遭い,知人も少なく,寂しく無縁仏になった,山男らしい,無口な彼の笑顔を忘れることは出来ない。この鹿島町からは永遠に忘れられることであろうが。
○同僚二人の死
私はこの災害で10人以上の親戚を失ったが,それ以上に,忘れられない人がいる。それは永年,職場で中心的に働いてくれた人。一人は3歳になる孫を連れ,二人目の出産のために里帰りした娘の世話をするため,早めに退職。自宅で母親,娘,孫そして生まれてくるはずの孫が犠牲になり,当人はまだ帰っていない。また,別の一人は,孫の面倒をみるためと災害の3年程前に退職した。彼女は自宅が原発20㎞圏内のため家族で仮設住宅に入ったが,放射能を恐れた孫達は他所に行き,仮設での独り暮らしを余儀なくされ,目標も失い,寂しさのあまりに,昨年の暮れ60歳を前にして自ら命を絶ってしまった。この二人とも,口数が少ないがよく気がつき,相手を思いやる,笑顔の美しい,会社のドル箱的存在であった。前者は天災,後者は原発の犠牲と直接の死因は違っても惜しまれる死であり,忘れられないことに変わりはない。
○ボランティアの温かい心
災害の年,放射能に汚染された南相馬に全国から,勇気を出して,多くのボランティアが応援に来てくれた。ガレキを片付けるに必要な重機は汚染されるからと借りられず,物資やガソリンも,それを運ぶ運転者が怖がり,また運送会社の方針もあったこととも思うが,届けられず,こちらから50~60㎞の隣地まで取りに行く状況であった。そんな中,水も電気,コンビニ等も無い,無い無いづくしの放射能が充満している中で一緒にガレキを片付け,仮設住宅を回って心のケアをしてくれた顔が今も鮮明に思い浮かぶ。震災後,早四年が経ったが,今も時折,その人達が南相馬を心配して全国から来て顔を出してくれている。「感謝」の一言があるのみである。
○被災は今も
確かに空気中の放射能は少なくなった。しかし,元に戻ったわけではない。集落70戸,今年は5月になるのに鯉のぼりを一つも見ることができない。山笑う季節になっても田圃に若葉も映らず,集落内で子供達の笑い声が聞こえることもない。子供達の半分以上が避難し,学校,職場の関係で,集落には永遠に戻らないだろう。
他にも問題は山積されている。それでも,国と東電は「事故は収束した」として忘れさせようとしている。原発の事故は,自然災害ではなく,人災であり,それが大きな生活圏を抹殺したことを忘れないでほしい。
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