ふるさとを語る
宇和島―その歴史と食文化
脇 稔明(愛媛県松山市)
愛媛県の南端にある宇和島市は慶長19年(1614年)12月28日,伊達秀宗が2代将軍徳川秀忠により伊予宇和島藩10万石を与えられ,慶長20年3月18日に板島丸串城(宇和島城)に入城したことから宇和島藩が正式に成立した。秀宗は戦国の世に「独眼竜」と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子である。秀宗ははじめ政宗の世子であったが,天下の覇権が豊臣家から徳川家に移り,また政宗と正室愛姫との間に忠宗が生まれたこともあって秀宗はその立場が問題になった。このため政宗は徳川家に秀宗の身が成り立つように嘆願し,大坂冬の陣で政宗と秀宗が共に徳川方として従軍すると,幕府は政宗の戦功と秀宗の忠義に報いるとの理由で宇和島藩を与えられた。宇和島藩伊達家は仙台藩の支藩ではなく,新規に国主格大名として取り立てられ,秀忠より「西国の伊達,東国の伊達と相並ぶ」ように命ぜられた。幕府の有力外様大名統制政策の一つとして,伊達家を東西に分断し,その力を弱体化させる狙いもあった。ともあれ,初代藩主伊達秀宗により宇和島の新しい藩政治は始まった。
愛媛県は今治等を中心とする東予,松山等を中心とする中予,宇和島等を中心とする南予と3地域に分類されている。地域によりそれぞれ風習も人間性も大きく違っている。ある雑誌には100万円もらったらどうするかという質問に,東予の人はそれを元手に商売して儲ける,中予の人はすぐ貯金する,南予の人は一晩で遊飲してしまう,と紹介されている。宇和島は愛媛県といっても南端に位置し高知県と隣接している。自ずから交流も東予の人より高知の人が多くなるのは当然のことである。特に食生活ではそれがよく表れている。私は純粋の宇和島ッ子だからはっきり言えるのだが,瀬戸内料理よりはるかに土佐料理の方が美味しいと思うし,人との付き合いでもまさに然りと言える。また,宮崎他の東南九州との海での交流も盛んであった。
そこで次に,宇和島の生活習慣,食習慣について述べてみたい。
私は幼少の時から高校卒業するまで宇和島市でも郊外の石応(コクボ)という小さな漁村で育ったが,常食でお米だけのご飯を一度も食べたことがない。麦飯とさつま芋が主食であった。お米だけのご飯が食べられたのは年に数回,運動会とか地方の祭りの時だけだった。おかずといえば毎日毎日四ツ手網漁の漁師さんから分けてもらうホータレいわし。(片口イワシのことで宇和島地方では俗称「ホータレ」と呼ばれている。)このイワシを祖父が塩漬けにしておいて毎日フライパンで焼いて食べるホータレの塩辛は絶品であったと今でも懐かしく思う。今の私の元気な体は少年時代の芋の飯とイワシのおかげであると思うこの頃である。
宇和島の生活習慣を考えると何と言っても仙台伊達藩からの影響は大であったと思う。秀宗の重鎮や家来等家族一同の入居であったのだからその習慣が地に密着していったのは当然と言える。一例を挙げると,毎年10月28日に行われている宇和津彦神社の秋祭りに実施されている優雅で格調高い八ツ鹿踊りは仙台の鹿踊りが移入され、宇和島で定着したものである。また,宇和島のじゃこ天,かまぼこといえば今では全国ブランドになっている名物だが,それも笹かまぼこで有名な仙台の漁食文化の流れが伝わったものである。それから,宇和島料理として有名なさつま汁は宮崎の日向めしの冷や汁が元になっているとされているが,麦味噌と白身魚の焼いた身の練り合わせが見事に調和して何とも奥ゆかしい味わいのある料理で私の大好物の一つである。その他鯛めしや鯛そうめん,ふくめん,宇和海料理は土佐のさわち料理の流れから来て,どれをとっても南予独特の特徴があり,食通には「もってこい」の地域である。
この「もってこい」という言葉が宇和島の方言かどうかは私にはわからないが,宇和島弁の代表として,「おっとろしゃ,そんながいなことしなはんなや」(びっくりした,そんなひどいことするなよ)がある。方言を挙げると限りないと思うが,私は松山在住40余年になっても未だに松山弁には馴染めず,宇和島弁を多用してきている。
現在の宇和島市は国の町村合併政策後人口は81734人(世帯数36976世帯)―平成27年1月15日現在―で,真珠養殖高日本一位,鯛,ブリの養殖も日本で有数の産地となっている。国の地方活性化政策の一環として愛媛の中村知事も宇和島中心に南予の活性化に力を入れており,観光地としても大飛躍し,発展していく夢の実現を楽しみにしているところである。
最後に私事であるが,この度,文献や資料を参考に宇和島の歴史をまとめてみて,私の祖父の生家は藤原純友の乱で知られる宇和島市日振島清家家で,宇和海一帯を仕切る大荘家(ダイショウヤ)であり,祖父は次男で家を出たが曾祖父の墓が日振島阿(ア)海(コ)にあり,文久年間から10いくつも並んでいて院殿号をもらっていることが確認できた。清和天皇からの系図(写し)もあり,これらのことをまとめてみたいとの思いが強烈になった。
宇和島―その歴史と食文化
脇 稔明(愛媛県松山市)
愛媛県の南端にある宇和島市は慶長19年(1614年)12月28日,伊達秀宗が2代将軍徳川秀忠により伊予宇和島藩10万石を与えられ,慶長20年3月18日に板島丸串城(宇和島城)に入城したことから宇和島藩が正式に成立した。秀宗は戦国の世に「独眼竜」と称された仙台藩主伊達政宗の庶長子である。秀宗ははじめ政宗の世子であったが,天下の覇権が豊臣家から徳川家に移り,また政宗と正室愛姫との間に忠宗が生まれたこともあって秀宗はその立場が問題になった。このため政宗は徳川家に秀宗の身が成り立つように嘆願し,大坂冬の陣で政宗と秀宗が共に徳川方として従軍すると,幕府は政宗の戦功と秀宗の忠義に報いるとの理由で宇和島藩を与えられた。宇和島藩伊達家は仙台藩の支藩ではなく,新規に国主格大名として取り立てられ,秀忠より「西国の伊達,東国の伊達と相並ぶ」ように命ぜられた。幕府の有力外様大名統制政策の一つとして,伊達家を東西に分断し,その力を弱体化させる狙いもあった。ともあれ,初代藩主伊達秀宗により宇和島の新しい藩政治は始まった。
愛媛県は今治等を中心とする東予,松山等を中心とする中予,宇和島等を中心とする南予と3地域に分類されている。地域によりそれぞれ風習も人間性も大きく違っている。ある雑誌には100万円もらったらどうするかという質問に,東予の人はそれを元手に商売して儲ける,中予の人はすぐ貯金する,南予の人は一晩で遊飲してしまう,と紹介されている。宇和島は愛媛県といっても南端に位置し高知県と隣接している。自ずから交流も東予の人より高知の人が多くなるのは当然のことである。特に食生活ではそれがよく表れている。私は純粋の宇和島ッ子だからはっきり言えるのだが,瀬戸内料理よりはるかに土佐料理の方が美味しいと思うし,人との付き合いでもまさに然りと言える。また,宮崎他の東南九州との海での交流も盛んであった。
そこで次に,宇和島の生活習慣,食習慣について述べてみたい。
私は幼少の時から高校卒業するまで宇和島市でも郊外の石応(コクボ)という小さな漁村で育ったが,常食でお米だけのご飯を一度も食べたことがない。麦飯とさつま芋が主食であった。お米だけのご飯が食べられたのは年に数回,運動会とか地方の祭りの時だけだった。おかずといえば毎日毎日四ツ手網漁の漁師さんから分けてもらうホータレいわし。(片口イワシのことで宇和島地方では俗称「ホータレ」と呼ばれている。)このイワシを祖父が塩漬けにしておいて毎日フライパンで焼いて食べるホータレの塩辛は絶品であったと今でも懐かしく思う。今の私の元気な体は少年時代の芋の飯とイワシのおかげであると思うこの頃である。
宇和島の生活習慣を考えると何と言っても仙台伊達藩からの影響は大であったと思う。秀宗の重鎮や家来等家族一同の入居であったのだからその習慣が地に密着していったのは当然と言える。一例を挙げると,毎年10月28日に行われている宇和津彦神社の秋祭りに実施されている優雅で格調高い八ツ鹿踊りは仙台の鹿踊りが移入され、宇和島で定着したものである。また,宇和島のじゃこ天,かまぼこといえば今では全国ブランドになっている名物だが,それも笹かまぼこで有名な仙台の漁食文化の流れが伝わったものである。それから,宇和島料理として有名なさつま汁は宮崎の日向めしの冷や汁が元になっているとされているが,麦味噌と白身魚の焼いた身の練り合わせが見事に調和して何とも奥ゆかしい味わいのある料理で私の大好物の一つである。その他鯛めしや鯛そうめん,ふくめん,宇和海料理は土佐のさわち料理の流れから来て,どれをとっても南予独特の特徴があり,食通には「もってこい」の地域である。
この「もってこい」という言葉が宇和島の方言かどうかは私にはわからないが,宇和島弁の代表として,「おっとろしゃ,そんながいなことしなはんなや」(びっくりした,そんなひどいことするなよ)がある。方言を挙げると限りないと思うが,私は松山在住40余年になっても未だに松山弁には馴染めず,宇和島弁を多用してきている。
現在の宇和島市は国の町村合併政策後人口は81734人(世帯数36976世帯)―平成27年1月15日現在―で,真珠養殖高日本一位,鯛,ブリの養殖も日本で有数の産地となっている。国の地方活性化政策の一環として愛媛の中村知事も宇和島中心に南予の活性化に力を入れており,観光地としても大飛躍し,発展していく夢の実現を楽しみにしているところである。
最後に私事であるが,この度,文献や資料を参考に宇和島の歴史をまとめてみて,私の祖父の生家は藤原純友の乱で知られる宇和島市日振島清家家で,宇和海一帯を仕切る大荘家(ダイショウヤ)であり,祖父は次男で家を出たが曾祖父の墓が日振島阿(ア)海(コ)にあり,文久年間から10いくつも並んでいて院殿号をもらっていることが確認できた。清和天皇からの系図(写し)もあり,これらのことをまとめてみたいとの思いが強烈になった。
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