有限会社 三九出版 - 〔ミニミニ自分史〕  『満洲は心のふるさと』


















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――miniミニjibunshi――

       『満州は心のふるさと』

          坂本進一郎(秋田県大潟村)

 満州が心のふるさとになったのはなぜか。もちろん私は五歳の時,満州から引き上げてきたので,満洲での断片的な思い出はいっぱいある。しかし,それが直接心のふるさとにつながったわけではない。両親の思い出話と私の断片的な思い出が重なり合って,満洲を心のふるさとにしたのである。
 私の住んでいた社宅は天宝街に沿って5軒。そこから天宝街と鉤型に直交する道路に沿って5軒。二階建てなので20軒長屋であった。そして,鉤型の建物の内側は広場になっていた。昭和20年日本の敗戦と共に,我々の住む新京(長春)では都市奪還をめぐって,八路軍(毛沢東軍)と国民党軍(蒋介石軍)との間に戦争が行われ,八路軍が勝利した。彼らは空屋に分宿していて,夕方になると胡弓(二胡)の音を子供たちに聞かせにきた。恐らく,この時の二胡の音が体に染みついたのであろう。すすり泣くような悲しい二胡の音を聞くと,今でも49歳の若さで死去した母の思い出話と重なって,心は大陸に戻される。
 満洲での強烈な思い出は,日没の太陽である。同じ社宅の私とは反対側の中学生位の男の子がしつこく遊びに行こうと私を誘った。しかし、同じ社宅の子供とはいえ,中学生は恐ろしく思えた。それでも彼のしつこさに負けて彼のあとについていった。ところがだんだん夕暮れになってきた。すると日没の太陽はすべてを金色に近い茜(あかね)色に染め,その巨体をズシン,ズシンと沈めていった。その荘厳さに私は圧倒された。
 色々思い出があるが,引き揚げ時のことを記してみよう。父は召集され,次弟は8月11日ソ連侵攻後の2日後,ドサクサの中で死んだので,末の弟と母,それに私の3人で引き揚げてきた。引き揚げ港はコロ島である。この港は反日感情もえたぎる張学良(父は日本に殺された張作霖)が大連港に匹敵するだけの港を作ろうとしたが,関東軍にストップをかけられ未完のまま終った。そのため石炭の積み出し程度の小さな港であった。そんなことでこの港には艀(はしけ)がなく,船の脇腹に長い長いタラップが取り付けられていた。そこをリュックを背負い,両の手に風呂敷包みを持たされ,タラップを一歩一歩甲板目指して登っていくのである。ところが長いタラップは大勢の人の重みと足の動きとでグラグラ揺れて怖かった。立ちすくんでいると若い船員がタッタッと降りてきて私の背中を押してくれた。甲板に上がった時には,助かったと思った。ところが割り当てられたところは船倉なので,甲板からさらに小さな垂直に近い梯子から落ちないようソロリソロリと降りた。船室には一面に畳が敷かれ,船倉は無性に暑い。機関室からくる熱もあるのだろう。
 暑いのに私はたまらず,母の許可を得て,時々甲板に出た。さすがに甲板は涼しい。甲板に上がると船員の食堂も見え,我々引き揚げ者の食事はサツマイモのつるの入ったオジヤであったが,それとは違い船員食堂はキチンと整理されて,器なども立派なものである。だからうまいものを食っているのだろう。それがこの風景と匂いで伝わってうらやましかった。食堂にはペットの猿も飼われてあり,今までの追い立てられるような「逃避行」と違って,この船にはゆったりした時間が流れていて,「なんともほっとするなあ」という気持ちになったことを憶えている。しかし母をはじめ大人はほとんど甲板に上がってこず,いつも船室で横になったままだ。甲板に上がってくる気力,体力は失せてしまったのだろう。ところが一団の大人達が甲板に上がってくることがある。そこには必ず薦(こも)に包まれたものを携えている。そして,その薦に包まれた物体を海に投げるのである。その瞬間,一団の大人達は手を合わせ,船は汽笛を腹の底に染みるようにボーッと鳴らす。母に聞くと,「あれは水葬といってお葬式の一種なのよ」と教えてくれた。昭和21年,こうして母子3人は母の実家に帰った。
 帰国後,母は引き揚げまでの異常体験を山のように語ってくれた。昭和24年,父がシベリアから帰ると父と母の間で会話が続けられた。その会話は私の幼児体験につながるものだけに,両親の話に耳を傾けた。両親は満洲版農業協同組合である興農(こうのう)合作社(がっさくしゃ)に勤め,満洲に骨を埋めるつもりであった。その夢が破れ,裸一貫で帰らねばならなかったことにノスタルジャをつのらせ,その気持ちを会話で吐露していたのである。その両親の心残りは,私の心の中にも宿っている。子供の頃はそんなに満洲を思うことはなかったが,年をとるにつれ,両親の思い出と満洲が重なって,清洲を思うことが多くなった。このごろは2歳で満洲で大腸カタルで死去した次弟にもせめて生きて会えたらなあと思うことがある。
 私は帰国後,苦労して育った。母の姿というとミシンに向かっている姿を思い浮かべる。その母を楽させてやりたいというのが私の気持ちであった。私は母を背負って生きていると思っている。
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