《自由広場》
鶴(つる)彬(あきら)という川柳作家がいた
田中 富榮(徳島県徳島市)
私が鶴彬の名前を知ったのは,作家田辺聖子氏の「でんでん太鼓」である。番傘川柳の有名な作家の句を絶妙な文章で解説した本であり,その中に登場する「鶴彬」という青年の川柳に私は衝撃を受けた。一般に川柳といえば市井の人々の暮らしをおもしろおかしく,5・7・5で詠んだ句だと思っていたが,川柳にも「プロレタリア川柳」というのがあり,国家を批判した反戦思想を詠んだ「手と足をもいだ丸太にしてかへし」の句に出合い,その激しさに「ヘエッ!」とびっくりして思わず句を見つめた,というよりその句から目が離せられなかったのである。
解説を読むとこの句が作られた時代背景は1937年(昭和12年)であり,日中戦争勃発のころ。戦場へ送られた青年が戦闘で手や足をもぎ取られ,丸太同然になって役に立たなくなったから郷里に返すという冷酷な国家権力の理不尽を訴えた句なのである。言論統制の厳しい時代の中でこのような政府を批判する反戦川柳を堂々と詠む「鶴彬」とはどのような人物なのだろうか? そして命がけの川柳があったとは! 私は読みかけの本を中断して即パソコンで鶴彬なる人物を検索した。
○鶴彬の来歴
1908年(明治41年)石川県生まれ。小学校在籍中から「北国新聞」の子供欄に短歌,俳句を投稿する。1921年(大正10年)川柳作家岡田澄水に川柳の指導を受ける。1926年(大正15年)大阪で工場労働者として働く。一年で帰郷。森田一二の影響を受けてプロレタリア川柳へと傾斜。1930年(昭和5年)第9師団歩兵第7連隊(金沢)に入隊するが,陸軍記念日の「質問」などにより重営倉に入れられる。1931年(昭和6年)7連隊赤化事件の主犯とされ,治安維持法違反で大阪衛(えい)戌(じゅ)監獄に収監。1937年(昭和12年)作品が反軍的として治安維持法違反で再逮捕。中野区野方署に留置される。1938年(昭和13年)8月,野方署で赤痢に罹患。豊多摩病院に入院,死去。ベッドに手錠をくくりつけられたまま死んでいった。享年29歳。
写真の顔はまだ幼さが残る純粋で一途そうな田舎の青年である。何回投獄されても反戦川柳を詠み,とことん真実の句を作り続けた作家であった。社会が平和な時代であったなら,すばらしい川柳を次々と世に送り出していたであろうと思い,惜しい人を国家権力の象徴のような特別高等警察(特高)は鶴彬に反戦論者というレッテルを貼りつけて虫けらのように扱ったのである。
○鶴彬の川柳
〔反戦〕
手と足をもいだ丸太にしてかへし 万歳と上げて言った手を大陸へおいてきた
高粱(こうりゃん)の実りへ戦車と靴の鋲 胎内の動きを知るころ骨がつき
屍のいないニュース映画で勇ましい 稼ぎ手を殺してならぬ千人針
出征の門標があってがらんどうの小店 タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう
〔貧農の女工哀史〕
玉の井に模範女工のなれの果て 修身にない孝行で淫売婦
みな肺で死ぬる女工の募集札 吸いに行く姉を殺した綿くずを
ふるさとは病と一しょに帰るとこ 売られずにいるは地主の阿魔ばかり
〔半島の生まれ(民族的差別を受けた朝鮮人のための憤り)〕
半島の生まれでつぶし値の生き埋めとなる
内地人に負けてはならぬ汗で半定歩(日本人の賃銀の半額)
半定歩だけ働けばなまけるなとどやされる
ヨボと辱められて怒りこみ上げる朝鮮語となる
鉄板背負ふ若い人間起重機で曲がる背骨
母国掠め盗った国の歴史を復習する大声
日中戦争真っ只中の日本国中が戦争一色に染まっていた時代に,川柳というたった17文字に命をかけて戦争の愚かさを訴え続けた孤独な戦い。一途に自分の信じる道を貫き通した信念の強さ。最後まで国家権力に屈せず真実一路を固守し,殺されるまで川柳という無抵抗の武器を手放さなかった鶴彬の短い人生。
そして世間では軽んじられがちだった川柳が「手と足をもいだ丸太にしてかえし」と,これほど人の心に突き刺さる鋭い言葉の弾丸となって,怒りを国家権力に向かって投げつける力を持っているのかと,改めて文学の底力に私は深い感銘を受けたのである。戦争はすばらしい能力を持った幾千万の人間を,如何に無駄に葬り去ったことであろうか。悔みきれない思いがしてならない。
鶴(つる)彬(あきら)という川柳作家がいた
田中 富榮(徳島県徳島市)
私が鶴彬の名前を知ったのは,作家田辺聖子氏の「でんでん太鼓」である。番傘川柳の有名な作家の句を絶妙な文章で解説した本であり,その中に登場する「鶴彬」という青年の川柳に私は衝撃を受けた。一般に川柳といえば市井の人々の暮らしをおもしろおかしく,5・7・5で詠んだ句だと思っていたが,川柳にも「プロレタリア川柳」というのがあり,国家を批判した反戦思想を詠んだ「手と足をもいだ丸太にしてかへし」の句に出合い,その激しさに「ヘエッ!」とびっくりして思わず句を見つめた,というよりその句から目が離せられなかったのである。
解説を読むとこの句が作られた時代背景は1937年(昭和12年)であり,日中戦争勃発のころ。戦場へ送られた青年が戦闘で手や足をもぎ取られ,丸太同然になって役に立たなくなったから郷里に返すという冷酷な国家権力の理不尽を訴えた句なのである。言論統制の厳しい時代の中でこのような政府を批判する反戦川柳を堂々と詠む「鶴彬」とはどのような人物なのだろうか? そして命がけの川柳があったとは! 私は読みかけの本を中断して即パソコンで鶴彬なる人物を検索した。
○鶴彬の来歴
1908年(明治41年)石川県生まれ。小学校在籍中から「北国新聞」の子供欄に短歌,俳句を投稿する。1921年(大正10年)川柳作家岡田澄水に川柳の指導を受ける。1926年(大正15年)大阪で工場労働者として働く。一年で帰郷。森田一二の影響を受けてプロレタリア川柳へと傾斜。1930年(昭和5年)第9師団歩兵第7連隊(金沢)に入隊するが,陸軍記念日の「質問」などにより重営倉に入れられる。1931年(昭和6年)7連隊赤化事件の主犯とされ,治安維持法違反で大阪衛(えい)戌(じゅ)監獄に収監。1937年(昭和12年)作品が反軍的として治安維持法違反で再逮捕。中野区野方署に留置される。1938年(昭和13年)8月,野方署で赤痢に罹患。豊多摩病院に入院,死去。ベッドに手錠をくくりつけられたまま死んでいった。享年29歳。
写真の顔はまだ幼さが残る純粋で一途そうな田舎の青年である。何回投獄されても反戦川柳を詠み,とことん真実の句を作り続けた作家であった。社会が平和な時代であったなら,すばらしい川柳を次々と世に送り出していたであろうと思い,惜しい人を国家権力の象徴のような特別高等警察(特高)は鶴彬に反戦論者というレッテルを貼りつけて虫けらのように扱ったのである。
○鶴彬の川柳
〔反戦〕
手と足をもいだ丸太にしてかへし 万歳と上げて言った手を大陸へおいてきた
高粱(こうりゃん)の実りへ戦車と靴の鋲 胎内の動きを知るころ骨がつき
屍のいないニュース映画で勇ましい 稼ぎ手を殺してならぬ千人針
出征の門標があってがらんどうの小店 タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう
〔貧農の女工哀史〕
玉の井に模範女工のなれの果て 修身にない孝行で淫売婦
みな肺で死ぬる女工の募集札 吸いに行く姉を殺した綿くずを
ふるさとは病と一しょに帰るとこ 売られずにいるは地主の阿魔ばかり
〔半島の生まれ(民族的差別を受けた朝鮮人のための憤り)〕
半島の生まれでつぶし値の生き埋めとなる
内地人に負けてはならぬ汗で半定歩(日本人の賃銀の半額)
半定歩だけ働けばなまけるなとどやされる
ヨボと辱められて怒りこみ上げる朝鮮語となる
鉄板背負ふ若い人間起重機で曲がる背骨
母国掠め盗った国の歴史を復習する大声
日中戦争真っ只中の日本国中が戦争一色に染まっていた時代に,川柳というたった17文字に命をかけて戦争の愚かさを訴え続けた孤独な戦い。一途に自分の信じる道を貫き通した信念の強さ。最後まで国家権力に屈せず真実一路を固守し,殺されるまで川柳という無抵抗の武器を手放さなかった鶴彬の短い人生。
そして世間では軽んじられがちだった川柳が「手と足をもいだ丸太にしてかえし」と,これほど人の心に突き刺さる鋭い言葉の弾丸となって,怒りを国家権力に向かって投げつける力を持っているのかと,改めて文学の底力に私は深い感銘を受けたのである。戦争はすばらしい能力を持った幾千万の人間を,如何に無駄に葬り去ったことであろうか。悔みきれない思いがしてならない。
投票数:130
平均点:10.00
越県合併と栗きんとん〜中津川市〜 |
本物語 |
青い目の人形との84年ぶりの再会 |