ふるさとを語る
越県合併と栗きんとん〜中津川市〜
大野 寛機(愛知県名古屋市)
私のふるさと中津川市は岐阜県東南部に位置し,山地が多く,自然が豊かな街である。「木曽路はすべて山の中である」で始まる島崎藤村の小説『夜明け前』の馬籠は,元々長野県にあったが,2005年の平成の大合併によって,岐阜県中津川市となった。
江戸時代の木曽路は山の中でも,東海道とともに中山道として主要道路であった。しかし,明治新政府の発足により宿場町としての機能が廃止されてから,1882年には中山道に代わって木曽川沿いに国道が開発され,さらに1912年,国鉄中央線が開通したことにより,路線から外れた馬籠などは全く人通りが絶え,陸の孤島と化し,村の経済は急速にさびれていった。長い間の貧困生活の中で,外部からの刺激もないまま江戸時代そのままの生活を続けたが,観光地として脚光を浴び出したのは日本が高度経済成長期に入った頃からである。近代化が遅れ,昔ながらの街並み,家並みが残り,見直されたという。
1957年,昭和の大合併で馬籠地区のある神坂村議会は「中津川市との県境をまたいだ合併」を賛成多数で可決。その後中津川市議会,岐阜県議会も賛成したが,長野県議会だけが反対した。理由は「長野県を代表する文豪島崎藤村の生誕地である馬籠を長野県から離し,岐阜県に持っていかれたら大損失である」という。以降,神坂村は合併賛成派と反対派に分裂し意見対立から隣人同士が目を合わせないといういがみ合いが発生し,ついには長野県警の機動隊が常駐するという最悪の事態まで発展した。騒動は総理大臣の裁定に委ねられることとなったが,結果的には「越県合併を認めるが,馬籠など北部3集落は長野県に残留,その他は岐阜県へ」と決められ,結局両県納得という形で幕引きとなったのであるが,騒動は後まで続いた。小さな村の小中学校は対立以降,反対派の子供は村八分状態にされ,寺などを借りて仮授業を続けていたが,中津川市となるとそれも出来なくなってしまった。馬籠地区にも賛成派がいて,逆の村八分状態が起きていた。
47年後の2005年の合併では田中康夫長野県知事が合併を反対したが,長野県議会は賛成に回っていた。これはかつての騒動が議会の反対から村を二分する騒動に発展し,子供達につらい思いをさせていたことが禍根になっていたからである。
1959年,私の高校3年時に馬籠出身のクラスの友人がおり,彼の祖母は藤村の初恋の人だったとか。当時,越県合併問題があったのを記憶しているが,この様な詳しい事情は知らなかった。当時の彼は物静かで,目立たないタイプだと思っていたが,3年ほど前に偶然,馬籠で逢った彼は,50数年前とは大きく変わり,雄弁で元気な姿が見て取れた。当時は長野県側にいながら岐阜県の高校へ通っていたわけで,精神的には複雑な気持ちであったに違いないと,今になって分かった気がする。
そもそもこの地域は長野県にありながら,地形的にも,文化的にも岐阜県側との結びつきが強く,多くの人は通学,通勤をはじめ,買い物に行くのは中津川である。長野県であろうが,岐阜県であろうが,藤村は馬籠出身には違いない。両県ともどもそのゆかりの地として,大切にする心がけが必要かもしれない。
中山道は馬籠宿から落合宿そして中津川宿へと続く。古代から交通の要衝として栄えた中津川は,江戸時代には中山道最大の宿場町として皇族や幕府の要人も多く宿泊した。なかでも幕末の動乱期に桂小五郎は江戸から京へ上る長州藩主を中津川宿で待ちうけ,3日間の説得の末,長州藩国難打開のため薩長同盟への方針転換を決断させた。これが「長州中津川会議」で,秘密裏に行われた重要な出来事であった。
京や江戸の文化が入りやすかった中津川には粋な文人が多く,地元豪商たちによって俳句や茶の湯が盛んになり,さらには和菓子作りが発達した。一方,恵那山の麓に広がる中津川は,豊かな自然に恵まれ,山の恵みを使った食文化の一つが「栗」であった。大自然の中で育った山栗を加工して出来たさまざまな栗菓子の中から「栗きんとん」が商品化されたのは明治の中頃といわれている。おせち料理の「栗きんとん」とは違い,砂糖を入れて炊き上げ,茶巾で絞ったもので,しっとりとした程よい甘さの生菓子である。秋にならないと,中津川でなければ味わうことの出来ないふるさとの味である。
リニア中央新幹線が2027年開通を目途に2014年着工する。東京・名古屋間を40分で結ぶ。そしてその86%がトンネルというから中央新幹線は全て山の中である。甲府,飯田,中津川の途中は地上駅で,東京,相模原,名古屋は地下駅だから昔の山の中の駅は地上で平地にある駅は地下というから面白い。それにしても中津川は昔も今も交通の要衝である。1943年没の藤村に今のふるさとを想像できたであろうか。
越県合併と栗きんとん〜中津川市〜
大野 寛機(愛知県名古屋市)
私のふるさと中津川市は岐阜県東南部に位置し,山地が多く,自然が豊かな街である。「木曽路はすべて山の中である」で始まる島崎藤村の小説『夜明け前』の馬籠は,元々長野県にあったが,2005年の平成の大合併によって,岐阜県中津川市となった。
江戸時代の木曽路は山の中でも,東海道とともに中山道として主要道路であった。しかし,明治新政府の発足により宿場町としての機能が廃止されてから,1882年には中山道に代わって木曽川沿いに国道が開発され,さらに1912年,国鉄中央線が開通したことにより,路線から外れた馬籠などは全く人通りが絶え,陸の孤島と化し,村の経済は急速にさびれていった。長い間の貧困生活の中で,外部からの刺激もないまま江戸時代そのままの生活を続けたが,観光地として脚光を浴び出したのは日本が高度経済成長期に入った頃からである。近代化が遅れ,昔ながらの街並み,家並みが残り,見直されたという。
1957年,昭和の大合併で馬籠地区のある神坂村議会は「中津川市との県境をまたいだ合併」を賛成多数で可決。その後中津川市議会,岐阜県議会も賛成したが,長野県議会だけが反対した。理由は「長野県を代表する文豪島崎藤村の生誕地である馬籠を長野県から離し,岐阜県に持っていかれたら大損失である」という。以降,神坂村は合併賛成派と反対派に分裂し意見対立から隣人同士が目を合わせないといういがみ合いが発生し,ついには長野県警の機動隊が常駐するという最悪の事態まで発展した。騒動は総理大臣の裁定に委ねられることとなったが,結果的には「越県合併を認めるが,馬籠など北部3集落は長野県に残留,その他は岐阜県へ」と決められ,結局両県納得という形で幕引きとなったのであるが,騒動は後まで続いた。小さな村の小中学校は対立以降,反対派の子供は村八分状態にされ,寺などを借りて仮授業を続けていたが,中津川市となるとそれも出来なくなってしまった。馬籠地区にも賛成派がいて,逆の村八分状態が起きていた。
47年後の2005年の合併では田中康夫長野県知事が合併を反対したが,長野県議会は賛成に回っていた。これはかつての騒動が議会の反対から村を二分する騒動に発展し,子供達につらい思いをさせていたことが禍根になっていたからである。
1959年,私の高校3年時に馬籠出身のクラスの友人がおり,彼の祖母は藤村の初恋の人だったとか。当時,越県合併問題があったのを記憶しているが,この様な詳しい事情は知らなかった。当時の彼は物静かで,目立たないタイプだと思っていたが,3年ほど前に偶然,馬籠で逢った彼は,50数年前とは大きく変わり,雄弁で元気な姿が見て取れた。当時は長野県側にいながら岐阜県の高校へ通っていたわけで,精神的には複雑な気持ちであったに違いないと,今になって分かった気がする。
そもそもこの地域は長野県にありながら,地形的にも,文化的にも岐阜県側との結びつきが強く,多くの人は通学,通勤をはじめ,買い物に行くのは中津川である。長野県であろうが,岐阜県であろうが,藤村は馬籠出身には違いない。両県ともどもそのゆかりの地として,大切にする心がけが必要かもしれない。
中山道は馬籠宿から落合宿そして中津川宿へと続く。古代から交通の要衝として栄えた中津川は,江戸時代には中山道最大の宿場町として皇族や幕府の要人も多く宿泊した。なかでも幕末の動乱期に桂小五郎は江戸から京へ上る長州藩主を中津川宿で待ちうけ,3日間の説得の末,長州藩国難打開のため薩長同盟への方針転換を決断させた。これが「長州中津川会議」で,秘密裏に行われた重要な出来事であった。
京や江戸の文化が入りやすかった中津川には粋な文人が多く,地元豪商たちによって俳句や茶の湯が盛んになり,さらには和菓子作りが発達した。一方,恵那山の麓に広がる中津川は,豊かな自然に恵まれ,山の恵みを使った食文化の一つが「栗」であった。大自然の中で育った山栗を加工して出来たさまざまな栗菓子の中から「栗きんとん」が商品化されたのは明治の中頃といわれている。おせち料理の「栗きんとん」とは違い,砂糖を入れて炊き上げ,茶巾で絞ったもので,しっとりとした程よい甘さの生菓子である。秋にならないと,中津川でなければ味わうことの出来ないふるさとの味である。
リニア中央新幹線が2027年開通を目途に2014年着工する。東京・名古屋間を40分で結ぶ。そしてその86%がトンネルというから中央新幹線は全て山の中である。甲府,飯田,中津川の途中は地上駅で,東京,相模原,名古屋は地下駅だから昔の山の中の駅は地上で平地にある駅は地下というから面白い。それにしても中津川は昔も今も交通の要衝である。1943年没の藤村に今のふるさとを想像できたであろうか。
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雑 感 |
本物語 |
鶴(つる)彬(あきら)という川柳作家がいた |