miniミニJIBUNSHI
☆超音波医学国際会議出席異聞(7) 初めての東南アジア講演旅行(その2)
和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)
◇シリラ大学〜タイ・バンコック◇
1967年の初めてのタイ,バンコック訪問は,日本人にとり昔から親しみのある国だけに楽しみだった。この訪問は,以前順天堂大学医学部小児外科に留学していたシリラ大学のポルパット先生の招待によるものだった。空港にポルパット先生が出迎えてくれていたのは,何とも嬉しかった。早速,シリラ大学に案内された。シリラ大学病院は,チャオプラヤー河に面した広い敷地内に建物が散在する優雅な歴史的な病院だった。会議室には50名ほどの参加者が集まっており,ポルパット先生の司会で超音波診断全般にわたる講演を行った。熱心な質問も寄せられ,楽しい講演会となった。
講演後,河に面した大学の大きい素晴らしい野外レストランで大学のスタッフと一緒に昼食をとった。川面を渡る涼しい風に吹かれながらの素晴らしいタイ料理を満喫したことは,楽しい思い出ともなった。その後,ポルパット先生の案内で,町の歴史的に有名な寺院の数々を案内してもらい,仏教国を実感した。さらに豪華なシリラ大学専用ボートで,世界的にも有名なフローテングマーケットを見学,タイ独特の文化を多少でも知ることができたのは幸いだった。
◇香港,太平洋整形外科学会出席◇
1968年8月,太平洋整形外科学会出席のため初めて香港を訪問した。 香港は最近では非常に身近な海外旅行先となっているが,日本人の海外旅行が許可された1965年(昭和40年)頃は,香港はアヘン戦争の歴史や大東亜戦争緒戦の日本軍占領くらいの印象で,日本人にとって観光地という感覚は無かった。香港島の市庁舎ホールでの国際学会開会式出席のため,フェリーで香港島に渡った。フェリー船上から高層ビルが林立する香港島の偉観には驚かされた。 開会式での来賓の香港市長さんの挨拶が,「香港では,この暑い日中は我々は昼寝のため午後の会議は休会とするので,日本の参加者には世界的に有名な香港のショッピングを楽しんでもらいたい」という何とも愉快なものだった。私ども順天堂超音波グループの発表会場は,市庁舎の近くのホテルの最上階のホールで,発表は午後8時からの夜のセッションだった。早目にその発表会場に行ってみると,レストランを会議室に転用したもので,「百万ドルの夜景」が眺められる素晴らしいものだった。さらに参加者は入口のスタンドバーでアルコール類の飲み物を注文,飲みながら発表を聞くというスタイルには,日本の学会では想像もできなかったことだっただけに,何とも驚かされた。夜の11時近くになって,やっと私ども順天堂グループの出番となり,二人の演者が夫々超音波の診断的応用とがん治療への応用について,堂々たる講演を行った。発表内容が非常にユニークだったこともあり,司会者はじめ多くの出席者の質問が寄せられ,発表は大成功だった。
発表を大成功裏に終えて,ビクトリアピーク観光やショッピング,さらにマカオ観光などを楽しんだ後,再度の東南アジア大学での講演に出発した。
◇国立台湾大学〜台湾・台北◇
1968年8月,中華民国医学会の招待で国立台湾大学病院および台湾三軍病院での超音波診断法の講演のため,初めて台湾を訪問した。台湾は日本人にとって馴染み深いと同時に,植民地時代の色々複雑な思いもあった。国立台湾大学医学部は戦前の台北帝国大学医学部であり,昔ながらの帝大の雰囲気を残す煉瓦造りの雰囲気が残っていたのは感激だった。旧知の陳尭産婦人科教授の出迎えを受け,早速,講演会場の付属病院内の階段講堂に案内された。見ると,講堂正面の壁の上部に青天白日旗を中心に,大きい孫文と蒋介石総統の写真が飾られているのを見て,台湾の置かれている政治的な厳しい現状が実感された。約100名の参加者で,陳教授の紹介と司会で私は英語で講演を行った。陳先生が時々中国語に通訳してくれていた。 質問も活発に行われ,講演は大成功だった。その夜,台湾大学医学部主催の歓迎晩餐会に招待された。出席の台湾の古い先生方の上手な日本語には,嬉しいと同時に悲痛な思いだった。
翌日,三軍病院で講演を行った。この病院の医師の多くは大陸から移住の外省人で,日本語は通じなく全て英語だった。講演会では,多くの米国留学の医師の厳しい早口の英語での質問には参った。台湾大学とは全く違う雰囲気に戸惑うだけだった。
以上は今より40数年前の初めての東南アジア大学訪問の印象記である。これらを通じ,日本に対する学術面での援助の期待の大きさに感動すると同時に,1964年の東京オリンピックを成功させた経済大国にしては,日本の大学など教育研究機関の設備の貧しさは何とも残念に思われたのだった。しかし,その後の超音波医学学術交流の成果がアジア超音波医学連合結成に連なったことを思うと,感無量なものがある。
☆超音波医学国際会議出席異聞(7) 初めての東南アジア講演旅行(その2)
和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)
◇シリラ大学〜タイ・バンコック◇
1967年の初めてのタイ,バンコック訪問は,日本人にとり昔から親しみのある国だけに楽しみだった。この訪問は,以前順天堂大学医学部小児外科に留学していたシリラ大学のポルパット先生の招待によるものだった。空港にポルパット先生が出迎えてくれていたのは,何とも嬉しかった。早速,シリラ大学に案内された。シリラ大学病院は,チャオプラヤー河に面した広い敷地内に建物が散在する優雅な歴史的な病院だった。会議室には50名ほどの参加者が集まっており,ポルパット先生の司会で超音波診断全般にわたる講演を行った。熱心な質問も寄せられ,楽しい講演会となった。
講演後,河に面した大学の大きい素晴らしい野外レストランで大学のスタッフと一緒に昼食をとった。川面を渡る涼しい風に吹かれながらの素晴らしいタイ料理を満喫したことは,楽しい思い出ともなった。その後,ポルパット先生の案内で,町の歴史的に有名な寺院の数々を案内してもらい,仏教国を実感した。さらに豪華なシリラ大学専用ボートで,世界的にも有名なフローテングマーケットを見学,タイ独特の文化を多少でも知ることができたのは幸いだった。
◇香港,太平洋整形外科学会出席◇
1968年8月,太平洋整形外科学会出席のため初めて香港を訪問した。 香港は最近では非常に身近な海外旅行先となっているが,日本人の海外旅行が許可された1965年(昭和40年)頃は,香港はアヘン戦争の歴史や大東亜戦争緒戦の日本軍占領くらいの印象で,日本人にとって観光地という感覚は無かった。香港島の市庁舎ホールでの国際学会開会式出席のため,フェリーで香港島に渡った。フェリー船上から高層ビルが林立する香港島の偉観には驚かされた。 開会式での来賓の香港市長さんの挨拶が,「香港では,この暑い日中は我々は昼寝のため午後の会議は休会とするので,日本の参加者には世界的に有名な香港のショッピングを楽しんでもらいたい」という何とも愉快なものだった。私ども順天堂超音波グループの発表会場は,市庁舎の近くのホテルの最上階のホールで,発表は午後8時からの夜のセッションだった。早目にその発表会場に行ってみると,レストランを会議室に転用したもので,「百万ドルの夜景」が眺められる素晴らしいものだった。さらに参加者は入口のスタンドバーでアルコール類の飲み物を注文,飲みながら発表を聞くというスタイルには,日本の学会では想像もできなかったことだっただけに,何とも驚かされた。夜の11時近くになって,やっと私ども順天堂グループの出番となり,二人の演者が夫々超音波の診断的応用とがん治療への応用について,堂々たる講演を行った。発表内容が非常にユニークだったこともあり,司会者はじめ多くの出席者の質問が寄せられ,発表は大成功だった。
発表を大成功裏に終えて,ビクトリアピーク観光やショッピング,さらにマカオ観光などを楽しんだ後,再度の東南アジア大学での講演に出発した。
◇国立台湾大学〜台湾・台北◇
1968年8月,中華民国医学会の招待で国立台湾大学病院および台湾三軍病院での超音波診断法の講演のため,初めて台湾を訪問した。台湾は日本人にとって馴染み深いと同時に,植民地時代の色々複雑な思いもあった。国立台湾大学医学部は戦前の台北帝国大学医学部であり,昔ながらの帝大の雰囲気を残す煉瓦造りの雰囲気が残っていたのは感激だった。旧知の陳尭産婦人科教授の出迎えを受け,早速,講演会場の付属病院内の階段講堂に案内された。見ると,講堂正面の壁の上部に青天白日旗を中心に,大きい孫文と蒋介石総統の写真が飾られているのを見て,台湾の置かれている政治的な厳しい現状が実感された。約100名の参加者で,陳教授の紹介と司会で私は英語で講演を行った。陳先生が時々中国語に通訳してくれていた。 質問も活発に行われ,講演は大成功だった。その夜,台湾大学医学部主催の歓迎晩餐会に招待された。出席の台湾の古い先生方の上手な日本語には,嬉しいと同時に悲痛な思いだった。
翌日,三軍病院で講演を行った。この病院の医師の多くは大陸から移住の外省人で,日本語は通じなく全て英語だった。講演会では,多くの米国留学の医師の厳しい早口の英語での質問には参った。台湾大学とは全く違う雰囲気に戸惑うだけだった。
以上は今より40数年前の初めての東南アジア大学訪問の印象記である。これらを通じ,日本に対する学術面での援助の期待の大きさに感動すると同時に,1964年の東京オリンピックを成功させた経済大国にしては,日本の大学など教育研究機関の設備の貧しさは何とも残念に思われたのだった。しかし,その後の超音波医学学術交流の成果がアジア超音波医学連合結成に連なったことを思うと,感無量なものがある。
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