《自由広場》
ポルトガル滞在記(その1)
山本 年樹(神奈川県川崎市)
1.想いを行動へ
故郷での幼い日々の体験が,私をポルトガルへと導いてくれました。戦後間もなく私は四国・宇和島のカトリック幼稚園に通うことになりました。そしてそこで創立者で園長のイシドロ・アダネス神父にお会いしました。人見知りをする悪ガキだった私ですが,いつもニコニコされてやさしい神父をすぐ好きになり,よく神父にぶら下がって遊んだりしていました。私にとって神父は安心できる大きな存在だったように思います。進学のため上京し卒業後は会社勤め,そして結婚と忙しい毎日の中で幼稚園のこともつい遠い思い出となっていました。しかし,50代半ばを過ぎた頃に人生を振り返る場面が多くなり,イシドロ神父のことも懐かしく思い出しました。神父は日本での任務を終えられて,スペインへ帰国される途中,マニラで客死されたとのことでした。戦後の混乱期に私を大きな愛で包んでくれた神父に恩返しをしたい。その想いがだんだんと強くなってきた時,ふとザビエルのことを考えました。500年という年代を超えて,日本人に神の愛を伝えた二人の神父が私には二重写しとなって見えました。「そうだ,ヨーロッパに渡りザビエルの足跡を訪れよう。そしてそれを一代記としてまとめ,日本の人々に届けよう。イシドロ神父も喜ばれるのでは。」と思いついたのです。ザビエルは現在のスペイン領バスクの生まれですが,パリで学びイタリアで巡礼そしてリスボンからアジアへ向け出航しています。私はかつてブラジル勤務の経験があり,ポルトガルなら語学力を生かして何とかなるのではと考えたのです。こうして目的および目的地が定まりました。
2.かの地での第一歩
2002年の秋,単身で成田を出発し,パリ経由でリスボン空港に降り立ちました。はじめて訪れた町ですが,何故か見覚えのある街並が続き,懐かしい感じすらしました。早速格安のペンションに泊り,リスボンを探訪することにしました。最初に繁華街にあるレストランに入った時のことです。私は意気揚々と「ボンジア(今日は)」と言って席に座りました。すると若いウェィターがすっと寄ってきて,注文をとる前に「あなたは何時ブラジルから来られたのですか?」と尋ねるのです。私はビックリして,「ボンジアと言っただけなのにどうしてブラジル経験者と分かったの?」と聞き返しました。彼は「ポルトガルではボンディアと言います。」と言いました。よく聞くと他にも発音の違いや用語,文法の違いなど多々あってこれが同じルーツかという感じです。滞在初日から天狗の鼻を折られましたが,当分はブラジル流を押し通そうと居直りました。
さて,何と言っても長期滞在用の家探しが先決です。リスボンの地図を開いて,海岸沿いに伸びる鉄道があり,終点のカスカイスという町まで行ってみることにしました。まず古くから営業しているという不動産屋さんを訪れ,自分の希望する条件を伝えました。家具付き,住宅街立地,海が見える,家賃1000ユーロ迄(当時為替レートで10万円)などを希望しました。後日先方担当者と一緒に4〜5軒の家を見て歩きましたが,どれも一長一短というところで,最後に築後100年という家を見ました。家主はマフラという町の侯爵の末裔でマリアという老婦人でした。家柄のせいか気難しい感じですが,私のことは気に入ってくれたようでした。その家の2階部分(約100?)を貸してくれると言います。古い家なので水回りはやゝ問題がありそうで,私の一人暮しには広過ぎるかとも思いましたが,自分が考えていた条件に合っています。将来の来客ということも考えて借りることにしました。しかし,問題が一つ出てきました。先方が保証人が必要と言うのです。はじめての東洋人に貸すのだから,当然とも思える条件ですが,私にとっても初体験で,知人すらいません。そこで私の方から「保証人は立てられないが,保証金なら用意できるがどうか?」とカウンターオファーして,家賃2ヵ月分を担保として差入れることで話がまとまりました。不動産屋さんが用意してくれた5年間の契約書にマリヤと私がそれぞれサインして店子生活がスタートしました。
カスカイスはリスボンから郊外電車で約30分の距離にあり,かつては漁村でした。今でも毎日夕刻に魚市場でのセリが行われ,翌日メルカードという場所で小売されています。19世紀末に時の国王カルロス1世が別荘地とされ,王室関係者や外交官が住みつくようになり,洗練されたリゾート地としての姿を見せています。我家の前には要塞があり,歩哨が常時立っています。これぐらい治安のよい場所は他にはないと思います。秋も深まり,名物の焼栗の屋台から甘い香りが漂う季節となりました。
ポルトガル滞在記(その1)
山本 年樹(神奈川県川崎市)
1.想いを行動へ
故郷での幼い日々の体験が,私をポルトガルへと導いてくれました。戦後間もなく私は四国・宇和島のカトリック幼稚園に通うことになりました。そしてそこで創立者で園長のイシドロ・アダネス神父にお会いしました。人見知りをする悪ガキだった私ですが,いつもニコニコされてやさしい神父をすぐ好きになり,よく神父にぶら下がって遊んだりしていました。私にとって神父は安心できる大きな存在だったように思います。進学のため上京し卒業後は会社勤め,そして結婚と忙しい毎日の中で幼稚園のこともつい遠い思い出となっていました。しかし,50代半ばを過ぎた頃に人生を振り返る場面が多くなり,イシドロ神父のことも懐かしく思い出しました。神父は日本での任務を終えられて,スペインへ帰国される途中,マニラで客死されたとのことでした。戦後の混乱期に私を大きな愛で包んでくれた神父に恩返しをしたい。その想いがだんだんと強くなってきた時,ふとザビエルのことを考えました。500年という年代を超えて,日本人に神の愛を伝えた二人の神父が私には二重写しとなって見えました。「そうだ,ヨーロッパに渡りザビエルの足跡を訪れよう。そしてそれを一代記としてまとめ,日本の人々に届けよう。イシドロ神父も喜ばれるのでは。」と思いついたのです。ザビエルは現在のスペイン領バスクの生まれですが,パリで学びイタリアで巡礼そしてリスボンからアジアへ向け出航しています。私はかつてブラジル勤務の経験があり,ポルトガルなら語学力を生かして何とかなるのではと考えたのです。こうして目的および目的地が定まりました。
2.かの地での第一歩
2002年の秋,単身で成田を出発し,パリ経由でリスボン空港に降り立ちました。はじめて訪れた町ですが,何故か見覚えのある街並が続き,懐かしい感じすらしました。早速格安のペンションに泊り,リスボンを探訪することにしました。最初に繁華街にあるレストランに入った時のことです。私は意気揚々と「ボンジア(今日は)」と言って席に座りました。すると若いウェィターがすっと寄ってきて,注文をとる前に「あなたは何時ブラジルから来られたのですか?」と尋ねるのです。私はビックリして,「ボンジアと言っただけなのにどうしてブラジル経験者と分かったの?」と聞き返しました。彼は「ポルトガルではボンディアと言います。」と言いました。よく聞くと他にも発音の違いや用語,文法の違いなど多々あってこれが同じルーツかという感じです。滞在初日から天狗の鼻を折られましたが,当分はブラジル流を押し通そうと居直りました。
さて,何と言っても長期滞在用の家探しが先決です。リスボンの地図を開いて,海岸沿いに伸びる鉄道があり,終点のカスカイスという町まで行ってみることにしました。まず古くから営業しているという不動産屋さんを訪れ,自分の希望する条件を伝えました。家具付き,住宅街立地,海が見える,家賃1000ユーロ迄(当時為替レートで10万円)などを希望しました。後日先方担当者と一緒に4〜5軒の家を見て歩きましたが,どれも一長一短というところで,最後に築後100年という家を見ました。家主はマフラという町の侯爵の末裔でマリアという老婦人でした。家柄のせいか気難しい感じですが,私のことは気に入ってくれたようでした。その家の2階部分(約100?)を貸してくれると言います。古い家なので水回りはやゝ問題がありそうで,私の一人暮しには広過ぎるかとも思いましたが,自分が考えていた条件に合っています。将来の来客ということも考えて借りることにしました。しかし,問題が一つ出てきました。先方が保証人が必要と言うのです。はじめての東洋人に貸すのだから,当然とも思える条件ですが,私にとっても初体験で,知人すらいません。そこで私の方から「保証人は立てられないが,保証金なら用意できるがどうか?」とカウンターオファーして,家賃2ヵ月分を担保として差入れることで話がまとまりました。不動産屋さんが用意してくれた5年間の契約書にマリヤと私がそれぞれサインして店子生活がスタートしました。
カスカイスはリスボンから郊外電車で約30分の距離にあり,かつては漁村でした。今でも毎日夕刻に魚市場でのセリが行われ,翌日メルカードという場所で小売されています。19世紀末に時の国王カルロス1世が別荘地とされ,王室関係者や外交官が住みつくようになり,洗練されたリゾート地としての姿を見せています。我家の前には要塞があり,歩哨が常時立っています。これぐらい治安のよい場所は他にはないと思います。秋も深まり,名物の焼栗の屋台から甘い香りが漂う季節となりました。
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