ふるさとを語る
こけしと温泉〜宮城県鳴子温泉〜
橋 禮次郎(東京都小平市)
全ての人々にはそれぞれにふるさとが存在して,存在するふるさとの中を一生無言で歩み通して行くのではないだろうか。そして,そのふるさとも,歩む人の悲しみ喜びに寄り添いながら存在していると思う時,ふるさとは気持ちの中にと感じ取れるのかも。
私のふるさとは北の東北で,古くから湯治場として賑わっていた鳴子温泉郷である。秋田・山形・宮城の各県境が接する栗駒山の広い裾野の中に存在する温泉町で,湧き出る湯は泉質が場所によって異なり,日本の温泉質分類11種のうち8種類も吹き出ていて,別府温泉,登別温泉と並び,日本の三大湯質温泉と言われている。しかし交通不便なせいか,全国的にはあまり知られておらず,「鳴子温泉」というよりも,「こけしの鳴子」の方が知られている。一昔前は東京から鳴子まで十数時間も要して,帰郷する度に交通の不便さを感じたが,現在は東北新幹線のお蔭で3時間弱ぐらいで帰郷できるようになった。帰郷の度に時の進歩を感じながら,古川から鳴子までの小一時間のローカル線に乗る。その中で家族との再会,友との再会など全てが交差して慕(・)を繰り返し,列車の遅さに戸惑いながら気持ちが虚ろになりかける頃,乗車列車が温泉駅に近づき,見渡せば町中に立ち上る湯けむりが目につき始める。同時に周り一面に漂い始める湯黄独特の匂いが身を包み込む。そして町中の路上という路上は,真冬でさえも積雪しないくらいの地熱の温かさを保っている。その湯けむりと湯黄の匂いに直面した時にはじめて帰郷したという思いがする。温泉街のそれぞれの宿の掛け流しの湯が排水溝を湯けむり立てて流れていて,湯が湧き出ているのかの思いを懐かされるほどの温泉町である。
町中の土産店舗には必ずというほど昔ながらの素朴なこけし人形が飾られていて,いつも,恥じらいを含んで,嫁入りを待っているかのようなしぐさをして立ち尽くしている。それらの伝統の鳴子系のこけしは他所のこけしと違って,首を回すとキイキイと音が出るのが特徴で,そして何よりも華やかさと可憐さを漂わせている。これらのこけしは江戸末期頃に湯治場において幼い子供達の遊びの玩具として作られたとのこと。木の年輪とか乾燥状態によって鳴る音も違って,子供達は首を回しながら音を競い合って遊んだという。子供の頃によく聞いた昔話だが,村から離れた場所に鬼首(おにこうべ)という部落が存在し,そこには赤鬼青鬼が沢山住んでいて,冬場になると食料が乏しくなり,村に降りて来ては「食べ物がないか,泣き子はいないか」と,夜な夜な村中を探し求めて歩いたという。鬼達が諦めて帰るまで,村中の人は音一つ出さずに隠れていたが,あまりの怖さに子供たちは泣き出し始め,鬼達が子供たちを捕まえて食べそうになった時,村中の全てのこけし達は子供助けたさに,首を回して音を出し,鬼達を追い払ったという。その音は村が揺れ動くほどだったという。それから鬼達は二度と村に現れないという。助けられたお礼に村人達はこけしを魔除けとし,これまで以上に大切にした。
鳴子の四季は,春は新緑に囲まれて,夏は避暑地として,秋は紅葉,冬はスキーに雪遊びと,一年通して楽しみながら,生活の場としての環境を確保され存在している。特に鳴子峡の紅葉,鳴子ダム,鬼首間欠泉に鳴子スキー場と,自然の恩恵を受けて成り立っている町でもある。現在は地方市町村統合で,大崎市鳴子温泉として存在を新たにしている。「鳴子」の命名の由来は確かな資料は無く,一説によると源義経と静御前との子供の産湯の時に泣き声を出したことから「啼き子」それが転じて鳴子となったという伝承があるが定かでない。また一説にはこけし人形から出る音が子の泣き声に似ているところから啼き子,鳴き子,鳴子に繋がったという説も存在しているが確かでない。
鳴子温泉の始まりは,826年に起きた鳥屋ケ森山の噴火で,現在の温泉神社の境内に温泉が湧き出し始めたのが始まりと言われているが,これまた定かな説ではない。鳴子の呼び方にしても,東北特有の,づう−づう−弁の仙台弁をはじめとする東北弁からして,「鳴子,なるこ」を「なるご」と濁音で呼ぶ人が多い。どちらにしても町全体自立するだけの産業など何一つ無く,ましてや農地田畑も無く,全てが温泉に頼った生活を余儀なくされている,完全なる観光地で,あらゆる人々の恩恵を受けながら成り立っている中で,これまで人の情を,長い年月心底大切にして暮してきたからこそ,湧湯も絶えることなく旅人の疲れを労わっているのではないだろうか。
町を見下ろして聳え立つ花渕山の懐の温かさに浸って存在している町が,私の心のふるさとです。
こけしと温泉〜宮城県鳴子温泉〜
橋 禮次郎(東京都小平市)
全ての人々にはそれぞれにふるさとが存在して,存在するふるさとの中を一生無言で歩み通して行くのではないだろうか。そして,そのふるさとも,歩む人の悲しみ喜びに寄り添いながら存在していると思う時,ふるさとは気持ちの中にと感じ取れるのかも。
私のふるさとは北の東北で,古くから湯治場として賑わっていた鳴子温泉郷である。秋田・山形・宮城の各県境が接する栗駒山の広い裾野の中に存在する温泉町で,湧き出る湯は泉質が場所によって異なり,日本の温泉質分類11種のうち8種類も吹き出ていて,別府温泉,登別温泉と並び,日本の三大湯質温泉と言われている。しかし交通不便なせいか,全国的にはあまり知られておらず,「鳴子温泉」というよりも,「こけしの鳴子」の方が知られている。一昔前は東京から鳴子まで十数時間も要して,帰郷する度に交通の不便さを感じたが,現在は東北新幹線のお蔭で3時間弱ぐらいで帰郷できるようになった。帰郷の度に時の進歩を感じながら,古川から鳴子までの小一時間のローカル線に乗る。その中で家族との再会,友との再会など全てが交差して慕(・)を繰り返し,列車の遅さに戸惑いながら気持ちが虚ろになりかける頃,乗車列車が温泉駅に近づき,見渡せば町中に立ち上る湯けむりが目につき始める。同時に周り一面に漂い始める湯黄独特の匂いが身を包み込む。そして町中の路上という路上は,真冬でさえも積雪しないくらいの地熱の温かさを保っている。その湯けむりと湯黄の匂いに直面した時にはじめて帰郷したという思いがする。温泉街のそれぞれの宿の掛け流しの湯が排水溝を湯けむり立てて流れていて,湯が湧き出ているのかの思いを懐かされるほどの温泉町である。
町中の土産店舗には必ずというほど昔ながらの素朴なこけし人形が飾られていて,いつも,恥じらいを含んで,嫁入りを待っているかのようなしぐさをして立ち尽くしている。それらの伝統の鳴子系のこけしは他所のこけしと違って,首を回すとキイキイと音が出るのが特徴で,そして何よりも華やかさと可憐さを漂わせている。これらのこけしは江戸末期頃に湯治場において幼い子供達の遊びの玩具として作られたとのこと。木の年輪とか乾燥状態によって鳴る音も違って,子供達は首を回しながら音を競い合って遊んだという。子供の頃によく聞いた昔話だが,村から離れた場所に鬼首(おにこうべ)という部落が存在し,そこには赤鬼青鬼が沢山住んでいて,冬場になると食料が乏しくなり,村に降りて来ては「食べ物がないか,泣き子はいないか」と,夜な夜な村中を探し求めて歩いたという。鬼達が諦めて帰るまで,村中の人は音一つ出さずに隠れていたが,あまりの怖さに子供たちは泣き出し始め,鬼達が子供たちを捕まえて食べそうになった時,村中の全てのこけし達は子供助けたさに,首を回して音を出し,鬼達を追い払ったという。その音は村が揺れ動くほどだったという。それから鬼達は二度と村に現れないという。助けられたお礼に村人達はこけしを魔除けとし,これまで以上に大切にした。
鳴子の四季は,春は新緑に囲まれて,夏は避暑地として,秋は紅葉,冬はスキーに雪遊びと,一年通して楽しみながら,生活の場としての環境を確保され存在している。特に鳴子峡の紅葉,鳴子ダム,鬼首間欠泉に鳴子スキー場と,自然の恩恵を受けて成り立っている町でもある。現在は地方市町村統合で,大崎市鳴子温泉として存在を新たにしている。「鳴子」の命名の由来は確かな資料は無く,一説によると源義経と静御前との子供の産湯の時に泣き声を出したことから「啼き子」それが転じて鳴子となったという伝承があるが定かでない。また一説にはこけし人形から出る音が子の泣き声に似ているところから啼き子,鳴き子,鳴子に繋がったという説も存在しているが確かでない。
鳴子温泉の始まりは,826年に起きた鳥屋ケ森山の噴火で,現在の温泉神社の境内に温泉が湧き出し始めたのが始まりと言われているが,これまた定かな説ではない。鳴子の呼び方にしても,東北特有の,づう−づう−弁の仙台弁をはじめとする東北弁からして,「鳴子,なるこ」を「なるご」と濁音で呼ぶ人が多い。どちらにしても町全体自立するだけの産業など何一つ無く,ましてや農地田畑も無く,全てが温泉に頼った生活を余儀なくされている,完全なる観光地で,あらゆる人々の恩恵を受けながら成り立っている中で,これまで人の情を,長い年月心底大切にして暮してきたからこそ,湧湯も絶えることなく旅人の疲れを労わっているのではないだろうか。
町を見下ろして聳え立つ花渕山の懐の温かさに浸って存在している町が,私の心のふるさとです。
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雑 感 |
本物語 |
老人の夢・目標の一つ |