〔「輝け、男七十代」を読んで思うこと〕
ベテラン・ミドル・若手の力を一つに
大西 康之(千葉県流山市)
今年,実父と義父が立て続けに他界しました。二人とも78歳でした。そんな私にとって「輝け 男、七十代」の特集を拝読するのは,いささかつらい作業でしたが,読後は「二人の父も,こんな思いで頑張っていたのかもしれないな」と懐かしい気持ちになりました。
二人の父は,現役を退いた後も社会への関心を失わず,「何か自分も役に立てないか」と考えておりました。東日本大震災の後は,なけなしの年金から支援金を送り,ボランティアとして現地に入っていた大学生の孫娘の話を熱心に聞いていました。
特集でも,社会貢献を続けておられる方,健康のため汗を流されている方,趣味にまい進されている方などが登場され,生き生きと日々を過ごされている様子がひしひしと伝わってきました。諸先輩の「使命感」に頭の下がる思いです。
私は現在,48歳で日本経済新聞の編集委員をしています。7月に日本経済新聞社から京セラ名誉会長,稲盛和夫氏による日本航空の再生を描いたドキュメント「稲盛和夫最後の戦い〜JAL再生にかけた経営人生」を出版しました。
稲盛さんがJALに乗り込んだのは2010年,78歳のときです。京セラ,KDDIという2つの巨大企業を創業した稲盛さんの経営者手腕は折り紙付きですが,何せ高齢だったので「再建の実務は(JALに出資した政府系ファンドの)企業再生支援機構が担当し,稲盛さんは“お飾り”に過ぎない」と思っていました。
しかし取材を始めて驚きました。稲盛さんはまず手始めに,JALの子会社100社の社長と1時間ずつのべ100時間の面談をこなし,毎日,分厚い資料を読み込み,空港や整備場などJALの現場に赴いて若手社員の声に耳を傾けました。会議が詰まって時間がなくなると,コンビニのおにぎり2個で昼食を済ますこともしばしばありました。
取材を通じて私が感じたのは「経営に年齢は関係ない」ということでした。「何が何でもJALをよみがえらせる」という稲盛さんの強烈な意志が3万2000人のJAL社員に浸透し,同社は経営破たんからわずか2年で株式の再上場を果たしたのです。
JALの大西賢会長はこう言っています。
「破たん後,経営を任された私は,過去と決別し,新しいJALを作ろうと思いました。しかし新しいJALといっても,何をすればいいのか,経験がないのでわかりません。2つの巨大企業をゼロから立ち上げた稲盛さんの言葉は,説得力がありました。すがりたい,と思いました」
経営者人生50年の稲盛さんの経験と,何とか生き残りたいというJAL経営陣,社員の思いが一つになったことで,会社再建という偉業が成し遂げられたのです。
私は週末,千葉県の流山市でペガサス・ジュニア・フットボールクラブという少年サッカーチームのコーチをしています。コーチ歴10年の私にとって,30余年前にクラブを立ち上げた白井榮一会長は仰ぎ見る存在です。しかし会長は普段の練習方法や試合の采配については「みなさん頑張っているのだから,僕が口を出す必要はない」と我々コーチ陣に一任してくれています。
その上で,我々が迷ったり悩んだりしていると,豊富な経験から的確なアドバイスをくださいます。我々コーチ陣は会長に褒められたくて,日々,サッカーを学び,子供たちと汗を流しています。
我々40代,50代にとって父親世代にあたる70代は「そこにいて,見守ってくれているだけでありがたい存在」です。会社で,社会で,家庭で責任のある立場を任され,何とか頑張ろうとは思うものの,「どちらに進めばいいのだろう」「本当にこれでよかったのだろうか」と迷うこともしばしばです。
そんなとき,ふと後ろを振り返ると頼もしい先輩がいて「それでいいんだ」と頷いてくれる。「よくやってるぞ」と褒めてくれる。こんなに心強いことはありません。「親父に褒めてもらいたい」という気持ちは子供も大人も変わりないのです。もちろん私たちが間違えたときに「そうじゃないだろ」と叱ってもらうことも大切だと思います。
今年,プロ野球で日本一になった楽天の三木谷浩史オーナーは,経済学者の父,良一氏を「自分の隠れブレイン」と呼んでいました。先日,その良一氏が83歳で亡くなりましたが,三木谷さんの落胆ぶりはかなりなものでした。それだけ,お父上の存在が大きかったということでしょう。
ベテラン,ミドル,若手の力が一つになったとき,社会は良い方向に進むのだと思います。どうぞ七十代の皆様,お元気で。頼りないとは思いますが,我々現役世代の悪戦苦闘をずっと見守っていてください。
ベテラン・ミドル・若手の力を一つに
大西 康之(千葉県流山市)
今年,実父と義父が立て続けに他界しました。二人とも78歳でした。そんな私にとって「輝け 男、七十代」の特集を拝読するのは,いささかつらい作業でしたが,読後は「二人の父も,こんな思いで頑張っていたのかもしれないな」と懐かしい気持ちになりました。
二人の父は,現役を退いた後も社会への関心を失わず,「何か自分も役に立てないか」と考えておりました。東日本大震災の後は,なけなしの年金から支援金を送り,ボランティアとして現地に入っていた大学生の孫娘の話を熱心に聞いていました。
特集でも,社会貢献を続けておられる方,健康のため汗を流されている方,趣味にまい進されている方などが登場され,生き生きと日々を過ごされている様子がひしひしと伝わってきました。諸先輩の「使命感」に頭の下がる思いです。
私は現在,48歳で日本経済新聞の編集委員をしています。7月に日本経済新聞社から京セラ名誉会長,稲盛和夫氏による日本航空の再生を描いたドキュメント「稲盛和夫最後の戦い〜JAL再生にかけた経営人生」を出版しました。
稲盛さんがJALに乗り込んだのは2010年,78歳のときです。京セラ,KDDIという2つの巨大企業を創業した稲盛さんの経営者手腕は折り紙付きですが,何せ高齢だったので「再建の実務は(JALに出資した政府系ファンドの)企業再生支援機構が担当し,稲盛さんは“お飾り”に過ぎない」と思っていました。
しかし取材を始めて驚きました。稲盛さんはまず手始めに,JALの子会社100社の社長と1時間ずつのべ100時間の面談をこなし,毎日,分厚い資料を読み込み,空港や整備場などJALの現場に赴いて若手社員の声に耳を傾けました。会議が詰まって時間がなくなると,コンビニのおにぎり2個で昼食を済ますこともしばしばありました。
取材を通じて私が感じたのは「経営に年齢は関係ない」ということでした。「何が何でもJALをよみがえらせる」という稲盛さんの強烈な意志が3万2000人のJAL社員に浸透し,同社は経営破たんからわずか2年で株式の再上場を果たしたのです。
JALの大西賢会長はこう言っています。
「破たん後,経営を任された私は,過去と決別し,新しいJALを作ろうと思いました。しかし新しいJALといっても,何をすればいいのか,経験がないのでわかりません。2つの巨大企業をゼロから立ち上げた稲盛さんの言葉は,説得力がありました。すがりたい,と思いました」
経営者人生50年の稲盛さんの経験と,何とか生き残りたいというJAL経営陣,社員の思いが一つになったことで,会社再建という偉業が成し遂げられたのです。
私は週末,千葉県の流山市でペガサス・ジュニア・フットボールクラブという少年サッカーチームのコーチをしています。コーチ歴10年の私にとって,30余年前にクラブを立ち上げた白井榮一会長は仰ぎ見る存在です。しかし会長は普段の練習方法や試合の采配については「みなさん頑張っているのだから,僕が口を出す必要はない」と我々コーチ陣に一任してくれています。
その上で,我々が迷ったり悩んだりしていると,豊富な経験から的確なアドバイスをくださいます。我々コーチ陣は会長に褒められたくて,日々,サッカーを学び,子供たちと汗を流しています。
我々40代,50代にとって父親世代にあたる70代は「そこにいて,見守ってくれているだけでありがたい存在」です。会社で,社会で,家庭で責任のある立場を任され,何とか頑張ろうとは思うものの,「どちらに進めばいいのだろう」「本当にこれでよかったのだろうか」と迷うこともしばしばです。
そんなとき,ふと後ろを振り返ると頼もしい先輩がいて「それでいいんだ」と頷いてくれる。「よくやってるぞ」と褒めてくれる。こんなに心強いことはありません。「親父に褒めてもらいたい」という気持ちは子供も大人も変わりないのです。もちろん私たちが間違えたときに「そうじゃないだろ」と叱ってもらうことも大切だと思います。
今年,プロ野球で日本一になった楽天の三木谷浩史オーナーは,経済学者の父,良一氏を「自分の隠れブレイン」と呼んでいました。先日,その良一氏が83歳で亡くなりましたが,三木谷さんの落胆ぶりはかなりなものでした。それだけ,お父上の存在が大きかったということでしょう。
ベテラン,ミドル,若手の力が一つになったとき,社会は良い方向に進むのだと思います。どうぞ七十代の皆様,お元気で。頼りないとは思いますが,我々現役世代の悪戦苦闘をずっと見守っていてください。
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初めての東南アジア講演旅行(その1) |
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