有限会社 三九出版 - 初めての東南アジア講演旅行(その1)


















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☆超音波医学国際会議出席異聞(6)    初めての東南アジア講演旅行(その1)

                         和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)

 ◇シンガポール大学〜シンガポール◇
 1967年7月,順天堂大学熱帯医学研究会のサンダカンでの活動(「本物語」第42号)を終え,初めての東南アジア各国の大学での超音波診断法の講演旅行に興奮しながら出発した。当時,私にとってのシンガポールは,第2次大戦中の山下軍団による壮烈な戦闘などの印象のみで,観光地という感覚は全く無かった。郊外のシンガポール大学のラッフルズ学生寮に宿泊した。質素ながら良く完備しており,日本の大学に比べ羨ましい限りだった。シンガポール大学医学部病院は古いが,東南アジアにおける医学教育の中心としての伝統が理解された。担当教授の出迎えを受け,階段講堂で約50名の出席者を前にして講演を行った。超音波診断法の原理と臨床応用について詳しく説明した。その後,実際の肝疾患の患者について持参した超音波診断装置を使って,超音波診断の実演を行ったが,当時,日本では珍しかった原発性肝癌症例の超音波反射波形には,私自身が興奮するほどだった。後日談として,20年後のアジア超音波医学連合結成に際し(「本物語」35号)マレーシア代表として活躍された医師が,この時一学生として講堂の隅で私の講演を聞き,超音波診断に興味を持ち勉強を始めたことを聞かされたのは,その奇遇に驚くやら感激だった。
 講演会終了後,短時間ながら初めてのシンガポール観光を案内してもらった。有名なタイガーバウムガーデンの見物やラッフルズ広場の繁華街でのショッピングを楽しんだが,短時間での観光ではシンガポールの歴史や伝統を知ることは無理だった。
◇マラヤ大学〜マレーシア・クアラルンプール◇
 シンガポールから,前大戦中山下軍団がマレー半島南下進軍の戦跡を上空より思い浮かべながら,クアラルンプール空港に到着した。この素晴らしい空港が日本の賠償で作られたとのことを聞いて,何かほっとした思いになったが,同時に空港専用道路に沿って,多くの日本企業の広告看板が連立している風景には,当時の日本経済の高度成長による経済侵略が感じられたのには,暗い気分にさせられたのも事実だった。クアラルンプールの町には,多くの立派なモスク寺院が見られ,イスラム教国を実感した。ホテルで小休憩後,マラヤ大学を訪問したが,事前の訪問日時を知らせた手紙が未着らしく,担当の医師も出張中とのことで,マラヤ大学での講演その他の予定を残念ながら諦めざるを得なかった。当時の郵便事情はまだこのような状況だった。このマラヤ大学には翌1968年にも訪問し,この時は担当の白外科教授の歓待を受け,少人数ながら会議室で講演を行った。その後,白教授の案内で病院内を見学,素晴らしい諸設備の近代化には感心した。しかし,日本政府のODAによる各種の医療機器の援助が,ソフト面での人的援助に欠けているため,梱包も解かないままの人工腎臓装置などには,日本政府の援助の在り方について再考させられたのだった。
 短時間町の観光では,特産の錫の野天掘りの現場,錫工場,ゴム林や5本脚の神牛などを見学し,マレーシアの現状を多少でも知ることが出来たのは幸いだった。
◇ペナン総合病院〜ペナン◇
 1968年,東洋の真珠と呼ばれ,前大戦中には日本海軍の潜水艦基地として知られていたペナン島を訪問した。空港には以前,順天堂大学に留学していたペナン総合病院のバーニアシンガム先生が出迎えてくれていたのは嬉しかった。空港道路には大きい椰子などの熱帯性の街路樹の並木が続き,町全体が公園のような素晴らしい景色だった。早速,病院に案内された。大規模な英国式の病院で,病室にも広い廊下にも柱だけで窓がなく,自然の風が吹きぬける自然のエアコン式であったのは,とても開放的で気持ち良かった。私の講演には約30名の先生が集まっていた。講演は英語で行い,時々,バーニアシンガム先生がマレー語に通訳してくれた。講演後の質問も初歩的なものだったが,とても楽しい講演会となったことは何とも嬉しかった。講演後,バーニアシンガム先生の豪壮な官舎に案内された。家の前に広いグラウンドがあり,毎夕,馬でやるポロ競技を楽しむとのことだった。日本の医師の生活とは比較にならない優雅さには驚かされるだけだった。
 翌日のペナン島観光では,町の中心の繁華街の市場で買い物をしたが,特産品のバテック製品には値段に大きい差があり,聞くと安いのは日本製とのことにはがっくり来たものだった。ゴールデンサンドビーチのインド洋の落日は素晴らしかった。
 以上,短期間の東南アジアの大学の訪問で,第二次大戦の傷跡が残っている時期ながら,これら大学の日本の学術指導援助に寄せる期待の大きさを知ったのは感激だった。同時に日本の大学の施設の貧しさを思わざるを得なかった。(続く)



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