『ふるさとでの「第二の人生」』
本田 哲郎(鹿児島県日置市)
大学時代から四十数年間,関東に居住し,50歳ごろから出身地の「ふるさと会」の幹事長として,毎年のように総会などの企画・運営に当たっているうちに,元々郷党意識が強い自分でしたが,さらに望郷の念が一層強くなってきました。
幸いにも家内も中学時代の同級生で,子供達も学齢も終えていて,夫婦だけで今後の「第二の人生」の生活展望・決定が可能な状況となっていました。
田舎には90歳前の母も一人で実家を守っており,また以前から小生自身が糖尿病を患っていて,療養のためにも故郷に帰りたいという思いがますます募ってきました。60歳になった年,それまでの仕事(ガス会社の代表収締役)を辞職し,ちょうどその年娘も結婚しましたので,思いきってふるさとの鹿児島へ帰郷した次第です。「田舎に帰ってお前は何をやるのだ」と友人からは問われましたが。
それまで数年に一度子供達同伴で帰郷し,毎回のように自宅前に聳える愛宕山(標高89メートル)に登りました。この山は私の幼い頃,いつも友人や同級生らと登って春はメジロ捕り,秋は郁子(むべ)や椎の実なども採った懐かしい山であり,頂上の平らな所ではチャンバラゴッコなども楽しんだ我々子供達の遊び場でもありました。
それが近年,登山道も荒れており,また頂上付近の雑木林も大きくなって眺望も利かなくなってしまっており,山に登る子供達も少ない様子でした。
独立峰の愛宕山は当地区の大半が見渡せる景勝の地で,眼下の街並みや田圃の先に遠く東シナ海の吹上浜や野間岳や海に浮かぶ久多島なども眺められる山でした。
この思い出の山に,何とか登山道などを整備して今の子供達にも登ってもらい,故郷の地を一望の下に眺められる体験を味わってもらいたい。いずれ今の子供達も成長すれば故郷を巣立ってゆくであろう,その時,彼らの胸の中にいつまでも故郷の光景が宿っていてもらいたいと考えました。自分も都会に居て,いつも脳裏に去来するのは愛宕山から見たふるさとの美しく懐かしい風景でした。
帰郷後,幼友達らの助けを借りながら,請われるままに地区公民館などの役員などもこなして地域活性化などにも努め,何とかふるさとへの軟着陸ができました。その後2年を経過した後,地元の自治会においてこの愛宕山再開発について自分なりの構想を提案し,地元集落の皆さんの協力を取り付けた後「愛宕山登山道再開発実行委員会」を立ち上げ,地域
の公民館傘下の各自治会の協力を仰ぐことにしました。自分で各自治会長宅を個別訪問し,今回の愛宕山再開発について協力を要請しました。登山道の整備には小生所有の竹山(孟宗竹)の中に登山道を新設し,階段状に腐食しないプラスチック材の幅木などを設置するには100万円はどの予算が必要であり,その資金の調達と,また地域住民のボランティアでの労力奉仕をお願いしたいからです。相談申し上げたほとんどの各自治会長の方々から賛意をいただきました。その方々はご自分も幼い頃,愛宕山で過ごした同じ体験をされた方々であり,この提案に対して,今まで誰もこのような提案はなかった,賛成する,是非実行しようと言われました。
この愛宕山の中腹以上の部分は地元の町(今は市)の所有地であり,地元当局との折衝なども当方が当たり,町当局もこの事業については協力姿勢を示してくれました。例えば,頂上付近の大木の伐採した跡地は禿山のままにせず,我々の希望で花木を植樹したいとお願いしましたが,その花木は町が支給してくれることになりました。資金面でも地区民の皆さんの大きな協力で,充分な予算が組めるほどになりました。
工事の工程表や日程表も何とか作成し,その工程に応じてボランティアの必要人員を各自治会にお願いして,平成16年1月の初めから事業を開始して,寒い時期の作業でしたが,約1か月近くのボランティア作業で一人の怪我もなく無事完成することが出来ました。立派な登山道と展望の戻った頂上付近の整備も完了しました。頂上付近の雑木の伐採の跡地には,春は桜,夏はつつじ,秋は紅葉,冬は山茶花と,何時登っても季節の花が迎えてくれるように,約百本の花木も,植えた人の名札を付けて植樹しまして,今も生き生きと大きく育っています。
その後・地元小学校の先生方にも充分に説明とお願いをして,完成後は生徒の皆さんが課外授業や遠足などの度に登ってくれました。子供達の歓声が直下の拙宅までも聞こえてきて,自分として嬉しくなりました。その後も婦人会や地元の方々や帰省した人達なども登ってくれて,皆さんに親しまれる「愛宕山」が再生出来ました。
故郷に帰って,それまでの不義理の万分の一でも恩返しが出来たかなと思っており,自分史の一ページを飾るメルク・マールがちょっぴり出来たかなと満足しています。このような,ふるさとでの「第二の人生」もよいのではないでしょうか!?
本田 哲郎(鹿児島県日置市)
大学時代から四十数年間,関東に居住し,50歳ごろから出身地の「ふるさと会」の幹事長として,毎年のように総会などの企画・運営に当たっているうちに,元々郷党意識が強い自分でしたが,さらに望郷の念が一層強くなってきました。
幸いにも家内も中学時代の同級生で,子供達も学齢も終えていて,夫婦だけで今後の「第二の人生」の生活展望・決定が可能な状況となっていました。
田舎には90歳前の母も一人で実家を守っており,また以前から小生自身が糖尿病を患っていて,療養のためにも故郷に帰りたいという思いがますます募ってきました。60歳になった年,それまでの仕事(ガス会社の代表収締役)を辞職し,ちょうどその年娘も結婚しましたので,思いきってふるさとの鹿児島へ帰郷した次第です。「田舎に帰ってお前は何をやるのだ」と友人からは問われましたが。
それまで数年に一度子供達同伴で帰郷し,毎回のように自宅前に聳える愛宕山(標高89メートル)に登りました。この山は私の幼い頃,いつも友人や同級生らと登って春はメジロ捕り,秋は郁子(むべ)や椎の実なども採った懐かしい山であり,頂上の平らな所ではチャンバラゴッコなども楽しんだ我々子供達の遊び場でもありました。
それが近年,登山道も荒れており,また頂上付近の雑木林も大きくなって眺望も利かなくなってしまっており,山に登る子供達も少ない様子でした。
独立峰の愛宕山は当地区の大半が見渡せる景勝の地で,眼下の街並みや田圃の先に遠く東シナ海の吹上浜や野間岳や海に浮かぶ久多島なども眺められる山でした。
この思い出の山に,何とか登山道などを整備して今の子供達にも登ってもらい,故郷の地を一望の下に眺められる体験を味わってもらいたい。いずれ今の子供達も成長すれば故郷を巣立ってゆくであろう,その時,彼らの胸の中にいつまでも故郷の光景が宿っていてもらいたいと考えました。自分も都会に居て,いつも脳裏に去来するのは愛宕山から見たふるさとの美しく懐かしい風景でした。
帰郷後,幼友達らの助けを借りながら,請われるままに地区公民館などの役員などもこなして地域活性化などにも努め,何とかふるさとへの軟着陸ができました。その後2年を経過した後,地元の自治会においてこの愛宕山再開発について自分なりの構想を提案し,地元集落の皆さんの協力を取り付けた後「愛宕山登山道再開発実行委員会」を立ち上げ,地域
の公民館傘下の各自治会の協力を仰ぐことにしました。自分で各自治会長宅を個別訪問し,今回の愛宕山再開発について協力を要請しました。登山道の整備には小生所有の竹山(孟宗竹)の中に登山道を新設し,階段状に腐食しないプラスチック材の幅木などを設置するには100万円はどの予算が必要であり,その資金の調達と,また地域住民のボランティアでの労力奉仕をお願いしたいからです。相談申し上げたほとんどの各自治会長の方々から賛意をいただきました。その方々はご自分も幼い頃,愛宕山で過ごした同じ体験をされた方々であり,この提案に対して,今まで誰もこのような提案はなかった,賛成する,是非実行しようと言われました。
この愛宕山の中腹以上の部分は地元の町(今は市)の所有地であり,地元当局との折衝なども当方が当たり,町当局もこの事業については協力姿勢を示してくれました。例えば,頂上付近の大木の伐採した跡地は禿山のままにせず,我々の希望で花木を植樹したいとお願いしましたが,その花木は町が支給してくれることになりました。資金面でも地区民の皆さんの大きな協力で,充分な予算が組めるほどになりました。
工事の工程表や日程表も何とか作成し,その工程に応じてボランティアの必要人員を各自治会にお願いして,平成16年1月の初めから事業を開始して,寒い時期の作業でしたが,約1か月近くのボランティア作業で一人の怪我もなく無事完成することが出来ました。立派な登山道と展望の戻った頂上付近の整備も完了しました。頂上付近の雑木の伐採の跡地には,春は桜,夏はつつじ,秋は紅葉,冬は山茶花と,何時登っても季節の花が迎えてくれるように,約百本の花木も,植えた人の名札を付けて植樹しまして,今も生き生きと大きく育っています。
その後・地元小学校の先生方にも充分に説明とお願いをして,完成後は生徒の皆さんが課外授業や遠足などの度に登ってくれました。子供達の歓声が直下の拙宅までも聞こえてきて,自分として嬉しくなりました。その後も婦人会や地元の方々や帰省した人達なども登ってくれて,皆さんに親しまれる「愛宕山」が再生出来ました。
故郷に帰って,それまでの不義理の万分の一でも恩返しが出来たかなと思っており,自分史の一ページを飾るメルク・マールがちょっぴり出来たかなと満足しています。このような,ふるさとでの「第二の人生」もよいのではないでしょうか!?
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――miniミニjibunshi―― 『幸(しあ) 福(わせ) 感(かん)』 |
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――[還暦盛春駆ける夢]―― ☆銀次郎の日記から 『古希老人A氏の死後100年の夢』 |