有限会社 三九出版 - バッテラが好物になった理由(わけ)


















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                バッテラが好物になった理由(わけ)
                            持山 保信(徳島県徳島市)

 私の学生時代であった昭和30年代後半には関西の人だけが「バッテラ」を理解できたのだが,関東ではもちろん,それ以北の地ではとうてい認知してもらえない名詞であった。ましてやその正体が鯖の押し寿司であると理解できる人は皆無に等しかった。物流が発展した現在では鯖の押し寿司も全国版となっているが,その名の「バッテラ」はまだ市民権を得ていないと感じる。
 松前寿司,鯖の棒寿司,焼き鯖寿司,等々いろんな名称がある。私にとってはみんな「バッテラ」なのだが,とにかく,鯖を使用している寿司は名前が何であれ,私は大好きなのだ。
 西日本に鯖寿司を名物にするところが圧倒的に多いが,大阪の「松前寿司」もひとり気を吐いている。東の横綱であって,とりわけグルッと巻かれた厚めの昆布の味は鯖と絶妙の調和を以って私の喉をゴロゴロ言わせる絶品だ。
 西の横綱はなんと言っても松江の「吾左衛門寿し」だろう。味も申し分ないが,なんと言ってもその美しさである。極限にまで吟味した材料に職人の技が加わり,まさに芸術品と言ってもよろしいのではなかろうか。またその値段も私が知りうる鯖寿司の中では一番高価である。
 そもそも「バッテラ」は大阪で生まれたもの。明治24年創業の「すし常」のご主人の中(なか)さんがコノシロの片身を開き,舟形にして布巾で締め付けたものが元祖であって,これが実に好評で次々に多くの注文が舞い込むようになり,その注文に応えるため,舟形の木枠(寿司押し枠)を作成するに至ったものと聞いている。その後,材料のコノシロが高騰し,廉価な鯖が用いられるようになったそうだ。
 また,「バッテラ」とは,ポルトガル語で「小さな舟」のこと。幕末から明治にかけて人々はボートのことを「バッテーラ」と呼び,中さんのコノシロを用いた押し寿司の形がボートに似ていたことからこの寿司が「バッテラ」とよばれるようになったとか。

 さて,本題の私が「バッテラ」を好きになった理由だが,大学受験失敗の昭和41年まで遡る。その年は私にとって非常に苦しい一年となった。
 もとより浪人となって受験勉強だけに没頭できる境遇でもなかった私には,予備校などとんでもないことである。
 初級公務員採用の新聞記事を見つけた,その日のうちに応募して採用試験会場へと向かっていた頃には,友達は東京へ,大阪へと大学生活の荷物を送り出すことに余念がなく,希望に満ち満ちて徳島を去って行った。なんともやり場のない敗北感が津波のように押し寄せた。
 やがて一通の採用通知が届き,某中学校の事務職員としての生活が始まったが,勤務そのものはむしろ楽しかった。しかし諦めきれないのが進学の夢であり,四月からは再び受験勉強を始めることとなる。勤めを終えて帰宅すれば疲れもしていたが,夜は午前3時まで頑張ったものだった。夏が過ぎ,秋の終わりに服のまんま乗った体重計の針は43kgをやっと超えていた。体は丈夫なほうだったが,ここまでくると少し精神的に参ってしまう。上昇志向が急激に無くなり,希望していた国立大学への進学はもはや無理と判断せざるを得なくなっていた。
 そんな経緯をたどり,翌42年春には高松市に出張試験場があるという理由だけで,私は高崎経済大学を受験したのであった。
 高松での受験を終え,夜になって徳島に帰ってきたときは空腹に耐え切れず,自宅近くのバス停に降りるや,すぐ前にある大衆食堂に飛び込み,注文したのが「バッテラ」だった。
 少ない小遣いの中,当時の100円を散財して口にした寿司の味は,未だに忘れることが出来ない。苦しかった受験時代に終止符を打てるように願いながら食べた「バッテラ」だったが,その後の幸せがきっとやって来る予感がしたものだ。
 合格出来たのは徳島より遠くはなれた群馬県の大学であったが,一ヶ月後には勇躍,ボストンバッグ一つを提げて18歳の私は旅立って行った。
 その後,苦労もあったが,どうにか卒業も出来,郷里の銀行にも就職し,高崎を離れる際には現在の嫁さんまで連れて帰って,幸せな人生街道を今もって歩んでいる。
 「バッテラ」が好物になった理由(わけ)である。「バッテラ」の味は幸せを予感させる味なのだ。




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