有限会社 三九出版 - 天誅組ツアーこぼれ話


















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                    天誅組ツアーこぼれ話

                            岡本 崇(京都府木津川市)

 2013年3月,五條市の「天誅組大和義挙150年記念事業実行委員会」主催,2泊3日の「四国の志士たちの足跡を辿るバスツアー」に参加した。引率者の中に舟久保藍さんが居られたが,彼女は若い頃,天誅組総裁・吉村虎太郎に魅力を感じ,天誅組を専門に調査研究されていて,「実録天誅組の変」という本を淡交社から出版されたばかりだという。 その本には,私の実家の西吉野の岡本家の事も地図付で書かれている。それでその事を,90歳からPCを始めたという私の親戚の者(東京在住で102歳)にメールで知らせたら,岡本家では,天誅組軍医・井澤宜庵(岡本家の分家・岡田家の娘レイの婿)を匿っていた事や,天誅組主将・中山忠光卿の馬を預かり,宿舎を提供し, 兵糧米を差し出したので, 忠光卿直筆の証文を3通頂いた事などを話してくれた。 「百寿のお祝いを頂いた裏千家と淡交社は深い繋がりもあるので,その本を見たい」と云われて五條市の桜井書店(レイの弟の妻は櫻井家出身)から送った。
 藍さんの本の地図に記載の南阿田町の北には「阿太峯神社」や西尾牧場があるが,終戦前には特攻隊用の飛行場があった所である。その北側の山裾には,吉村虎太郎の「血染めの長襦袢」を所持していた事で有名な重阪の西尾家がある。この西尾一族と岡本家は昔からの親戚。岡本家が宿舎になったのは文久3年(1863年)9月7日であるが,天誅組は、その2週間前に西尾家に立ち寄っている。
 西吉野町西新子の岡本家のルーツを辿ると,白銀岳頂上近くに住んで「西」と名乗っていた。和歌山県日高や鹿児島県に多い名前である。天誅組が本陣を置いた白銀岳と峰続きの,庄屋山の頂上には海神神社があり,今でも西新子と夜中地区の人達が祀っている。吉野川沿いには「阿陀比売神社」が祀られているが,古事記・日本書紀にもこの地の記載がある。阿多隼人は少数派だが名門で,『記紀』では皇室に妃を出している。当神社の祭神は正に皇室の祖先の母親とされている。
 吉野川は南方漁法の鵜飼が行われていた地域であり,薩摩から移住の者が地名,漁法,祭神を持ち込んだものと思われる。平城遷都1300年祭のパレードの閉門式にも隼人が登場した。木津川沿いの,京田辺市大住地方に伝わる「大住隼人舞」も披露された。朱雀門の花壇は隼人紋様で,平城宮跡資料館のシンボルマークは隼人盾。このように,古くから朝廷に仕え,天誅組にも協力した十津川郷士や我が家の勤皇ルーツも,隼人と何らかの関わりがあるのではなかろうか。
 バスツアーの高知市の宿は「三翠園」。ここの天然温泉を「水哉閣」と命名したのは,大正天皇(明治40年・皇太子時代)であり,お供の東郷平八郎大将が墨書していた。渋谷氏(東京)が承久の乱の褒賞として薩摩を頂き,子孫が移住して東郷を名乗ったという。私の大学の恩師・難波田春夫先生の祖・金子氏は,その時,富士見市難波田を頂き,千葉県東庄の東氏(私の父方の祖)は美濃を頂き,美濃東氏を名乗った。これら3家は,私の父方35代前の祖となる村岡五郎のところで繋がっている。「三翠園」は,土佐藩15代藩主・山内容堂の下屋敷で,庭には西郷隆盛との会見跡もあるが,初代藩主・山内一豊の妻のPR展示が目立った。一豊の妻と云えば,東氏一族の遠藤氏の娘という説もあり,郡上八幡町に夫婦の銅像がある。
 東吉野村鷲家で壮絶な死を遂げた天誅組の福浦元吉の顕彰碑があった。彼は,兵庫県洲本市出身であるのに,徳島市に顕彰碑があった。立派な顕彰碑であるのに彼の説明看板だけがない。調べてみると,洲本市は徳島藩だったが,お家騒動が原因で,明治4年に兵庫県へ編入された。しかも洲本の関係者は北海道静内と色丹島へ士族として移住させられたという事であるから理解ができた。
 高知県津野町で見学した片岡兄弟の顕彰碑も大発見であった。勤皇の志士達を支援した片岡孫五郎の長男・片岡直輝は大阪ガス社長,阪堺・阪神・南海電鉄社長,大軌(大阪電気鉄道)相談役,貴族院を務めた。二男・片岡直温(なおはる)は日本生命社長,都ホテル社長,関西鉄道社長(明治31年大仏鉄道開業,明治37年紀和鉄道を合併),衆議院議員,商工大臣,大蔵大臣,貴族院を務めたとある。
 天誅組に協力した岡本徳兵衛(48歳)の子,岡本徳永(当時21歳)は,明治維新後,堺・大阪・奈良の県会議員を歴任し,地元の鉄道建設にも尽力した。五新鉄道は幻に終わり蕩尽したが,明治31年には紀和鉄道の監査役(五條〜橋本開業)も務め,明治33年片山直温が社長の時に,五條〜和歌山間(現在はJR)を開通させた。天誅組の変の時に徳永とご縁のあった吉村虎太郎と,片岡直温社長が,四万十川の源流といわれる,同じ津野町生まれであるというのも誠に不思議なご縁。直温の父・孫五郎は虎太郎が脱藩の時に旅費を与えたといわれている。



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