《自由広場》
「戒名」って,なーんだ?!
松井 洋治(東京都府中市)
別段,信心深いという訳でもないのだが,ここ十年来,私は家内と二人で必ず毎月「墓参り」をしている。その「墓」は「A家(家内の旧姓)・松井家之墓」と連名になっており,A家は仏教,松井家は神道だが,夫々の両親と早世した義弟の五人が,仲良く入っている。A家の法事の時には僧侶がお経を,松井家の祭事の時は神官が祝詞を,その墓前で上げてくださる。
今月の初め墓参りに行った際,霊園の休憩所で〈「戒名」とは?〉という印刷物を見つけたが,それにはこう書かれていた。“仏教には,現世より旅立たれた故人は〈戒〉が授けられ〈仏〉になるという教えがあります。〈戒〉とは「仏であるための約束事」です。新たな〈仏〉という存在になる故人には,生前の性格,仕事,家庭や社会との関わり等を考慮し,〈仏〉へと導く役割を担った僧侶から,〈仏〉としての新たな名前が授けられます。これを授戒と言います。故人が〈仏〉であり続けるための「証」。それが「戒名」です。”
ところが,最近読んだばかりの「世界がわかる宗教社会学入門」(橋爪大三郎著,筑摩書房)には,こう書かれている。“戒名とはなんだろう? 値段も高くて頭痛の種ですね。実は調べてみると、戒名は日本の、ごく最近の習慣で本来の仏教にはそんなものはないのです。戒名にはまず、その規定がない。小乗にせよ、大乗にせよ、仏教の原理原則は、経典か、律蔵か、論蔵に明記してあるはずです。ところが大蔵経をいくらひっくり返しても、「在家の信徒が死んだら戒名をつけてもらいなさい」とはどこにも書いてないのです。その昔インドでは、出家得度して仏弟子になる際、世俗の名前(俗名)を捨てて、僧侶としての名前(法名)をつけました。オウム真理教が、アーチャリーとかインド風の名前をつけていたのは、その真似です。(中略)法名は生きているうちにつけなければ意味がない。戒名は、死んでからつける。しかも「××院××居士」などとなっているでしょう。居士は「在家の男性」の意味ですから、こんな名前をつけるだけ無駄です。戒名の値段は、戦後値上がりしました。檀家制度が壊れて、経済的に成り立たなくなった寺院が、葬式のチャンスに、過去何十年分の費用をまとめどりする…戒名の社会的機能はこんなところです。仏教の誤解と堕落の産物と言えましょう。”
随分長い引用になってしまったが,この著者は現在,東京工業大学大学院教授で,専門は理論社会学,宗教社会学,現代社会論という人。
ここでは,霊園の休憩所で見た印刷物の説と,この教授の文章の両方を併記紹介するだけにとどめて,特にどちらかの見解に与したり,異を唱えたりするつもりはないが,次のような事実だけは書き留めておきたい。
今から28年前,義父の通夜の席で,その親戚筋から「A家は代々,“××院××居士”と決まっているのに,院号がついていない」と,葬儀の全てを取り仕切っていた女婿の私が,厳しく叱責され,やむなく,僧侶にお願い(勿論,然るべき金額を,追加で僧侶にお渡し)して,告別式は“××院××居士”で,何とか無事に済ませた記憶がある。
因みに,我が松井家の「神道」では,亡父の霊璽(れいじ・仏教の位牌に相当するもの)には「松井康廣大人命(うしみこと)」,亡母のには「松井綾子刀自命(とじみこと)」とだけ書かれている。
毎月の墓参りの際は,ひと通り周囲の掃除や木の剪定を終えると,墓前の「花活け」には,右側には「榊」を,左側には「仏花」を差し,ローソクと線香を焚く。
自宅には,狭いマンションなのに,私の書斎の天井近くには神棚を作り,家内の書斎には仏壇も置いて,毎朝,その両方に「水」と「緑茶」を上げ,一日おきに「榊」と「仏花」の水も取り替えながら,二人とも,何となく手を合わせている。
それは,「祈り」というより「挨拶」に近い。時には「お願い」もしない訳ではないが,「私なりに精一杯頑張りますから,どうぞ,今日もお守りください」程度のことである。生前の両方の(A家と松井家双方の)両親を知り尽くしている(つもり)の身としては,あれやこれやをお願いしても,聞いてくれないことが分かっているからかもしれない。ただ,習慣とは恐ろしいもので,出来るだけ「月初」に済ませることにしている墓参りを,忙しさにかまけて後送りすると,月の中頃,どうも何か借りができてしまったような気がして来て,そんな時は,霊園の送迎バスが出ない平日でも,何とか仕事をやりくりして,行くことにしている。私の信仰心は,せいぜいこんな程度で,泉下の五人が苦笑しているに違いない。合掌!
「戒名」って,なーんだ?!
松井 洋治(東京都府中市)
別段,信心深いという訳でもないのだが,ここ十年来,私は家内と二人で必ず毎月「墓参り」をしている。その「墓」は「A家(家内の旧姓)・松井家之墓」と連名になっており,A家は仏教,松井家は神道だが,夫々の両親と早世した義弟の五人が,仲良く入っている。A家の法事の時には僧侶がお経を,松井家の祭事の時は神官が祝詞を,その墓前で上げてくださる。
今月の初め墓参りに行った際,霊園の休憩所で〈「戒名」とは?〉という印刷物を見つけたが,それにはこう書かれていた。“仏教には,現世より旅立たれた故人は〈戒〉が授けられ〈仏〉になるという教えがあります。〈戒〉とは「仏であるための約束事」です。新たな〈仏〉という存在になる故人には,生前の性格,仕事,家庭や社会との関わり等を考慮し,〈仏〉へと導く役割を担った僧侶から,〈仏〉としての新たな名前が授けられます。これを授戒と言います。故人が〈仏〉であり続けるための「証」。それが「戒名」です。”
ところが,最近読んだばかりの「世界がわかる宗教社会学入門」(橋爪大三郎著,筑摩書房)には,こう書かれている。“戒名とはなんだろう? 値段も高くて頭痛の種ですね。実は調べてみると、戒名は日本の、ごく最近の習慣で本来の仏教にはそんなものはないのです。戒名にはまず、その規定がない。小乗にせよ、大乗にせよ、仏教の原理原則は、経典か、律蔵か、論蔵に明記してあるはずです。ところが大蔵経をいくらひっくり返しても、「在家の信徒が死んだら戒名をつけてもらいなさい」とはどこにも書いてないのです。その昔インドでは、出家得度して仏弟子になる際、世俗の名前(俗名)を捨てて、僧侶としての名前(法名)をつけました。オウム真理教が、アーチャリーとかインド風の名前をつけていたのは、その真似です。(中略)法名は生きているうちにつけなければ意味がない。戒名は、死んでからつける。しかも「××院××居士」などとなっているでしょう。居士は「在家の男性」の意味ですから、こんな名前をつけるだけ無駄です。戒名の値段は、戦後値上がりしました。檀家制度が壊れて、経済的に成り立たなくなった寺院が、葬式のチャンスに、過去何十年分の費用をまとめどりする…戒名の社会的機能はこんなところです。仏教の誤解と堕落の産物と言えましょう。”
随分長い引用になってしまったが,この著者は現在,東京工業大学大学院教授で,専門は理論社会学,宗教社会学,現代社会論という人。
ここでは,霊園の休憩所で見た印刷物の説と,この教授の文章の両方を併記紹介するだけにとどめて,特にどちらかの見解に与したり,異を唱えたりするつもりはないが,次のような事実だけは書き留めておきたい。
今から28年前,義父の通夜の席で,その親戚筋から「A家は代々,“××院××居士”と決まっているのに,院号がついていない」と,葬儀の全てを取り仕切っていた女婿の私が,厳しく叱責され,やむなく,僧侶にお願い(勿論,然るべき金額を,追加で僧侶にお渡し)して,告別式は“××院××居士”で,何とか無事に済ませた記憶がある。
因みに,我が松井家の「神道」では,亡父の霊璽(れいじ・仏教の位牌に相当するもの)には「松井康廣大人命(うしみこと)」,亡母のには「松井綾子刀自命(とじみこと)」とだけ書かれている。
毎月の墓参りの際は,ひと通り周囲の掃除や木の剪定を終えると,墓前の「花活け」には,右側には「榊」を,左側には「仏花」を差し,ローソクと線香を焚く。
自宅には,狭いマンションなのに,私の書斎の天井近くには神棚を作り,家内の書斎には仏壇も置いて,毎朝,その両方に「水」と「緑茶」を上げ,一日おきに「榊」と「仏花」の水も取り替えながら,二人とも,何となく手を合わせている。
それは,「祈り」というより「挨拶」に近い。時には「お願い」もしない訳ではないが,「私なりに精一杯頑張りますから,どうぞ,今日もお守りください」程度のことである。生前の両方の(A家と松井家双方の)両親を知り尽くしている(つもり)の身としては,あれやこれやをお願いしても,聞いてくれないことが分かっているからかもしれない。ただ,習慣とは恐ろしいもので,出来るだけ「月初」に済ませることにしている墓参りを,忙しさにかまけて後送りすると,月の中頃,どうも何か借りができてしまったような気がして来て,そんな時は,霊園の送迎バスが出ない平日でも,何とか仕事をやりくりして,行くことにしている。私の信仰心は,せいぜいこんな程度で,泉下の五人が苦笑しているに違いない。合掌!
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