有限会社 三九出版 - 群馬“謎の方位線”を推理する


















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                    群馬“謎の方位線”を推理する

                            成田 攻(東京都豊島区)

 関越自動車道を藤岡から新潟方面に進み前橋インターを過ぎると,すぐ左手に上野(かみつけ)国分寺跡がある。約1260年前,そこに高さ60メートルを越す七重塔と,東西220メートル,南北235メートルの華麗なる伽藍が完成した。聖武天皇が鎮護国家の思想を掲げ全国68の国に国分寺建立の勅令を発したのは天平13年(741)であった。上野国分寺は全国でもかなり早く749年には完成していたとされるが,土地の有力豪族たちの寄進に支えられ,またこの地方に寺社建築の技術に長けた渡来人集団がいたからだとも言われている。その上野国分寺も14世紀後半には見る影もなく荒廃し,やがて田畑の下に埋もれ,発掘調査が始まったのは実に昭和55年になってからであった。現在では金堂と七重塔の基壇および築垣の一部が復元されている。
 その上野国分寺跡を東北東から西南西方向(子午線に対して228度)に貫く一直線上(前橋市〜高崎市,約12キロ)に,東から遠見山古墳,宝塔山古墳,蛇穴山古墳,山王廃寺,国分寺,妙見寺,賢海坊古墳,御庫山古墳,観音崎古墳が見事に並んでいる。いずれも6〜8世紀頃に人間が作ったものであるから,偶然ではありえない。いったい,この一直線の配列は何を意味するのであろうか? まだ誰も気づいていないのか,ネット上には一片の情報もない。はこれを「謎の方位線」と名付けた。
 方位線といえば,古来,大和地方では遷都や寺社創建および天皇陵の造営に当たって,陰陽五行説に基づき近隣の山々(耳成山,二上山など)の頂を通る東西南北とそれに30度,60度で交差する方位線上に場所を定めたといわれる。しかし,群馬の「謎の方位線」は近隣の上州三山とは全く交わらない。そこで,北東方向に県外まで延長してみると,栃木,福島を経て太平洋に抜ける。南西に延長してみると,山梨,長野,愛知を通り伊勢湾を渡り,三重,和歌山をかすめて太平洋に抜ける。遠方のめぼしい山河もことごとくはずしている。いや待て,よくよく目をこらして見ると,「謎の方位線」はかろうじて伊勢の二見浦を貫いているように見える。はたして,古代群馬の人々が伊勢を指向する方位線上に墓や寺を建てた理由などあったのだろうか?
 ところで,伊勢を指向するといっても,あの時代にいったい,群馬からはるか330キロも離れた伊勢二見浦の方角を正確に指すことなどできたのであろうか? どうやら,それは可能だったらしい。大雑把に言えばこうだ。まず初めに伊勢二見浦に立って夜の天空を見上げ,頭上の星を確認する。そして,北辰の星(北極星)に向かいあと2つのめぼしい星を定めて三角形を結び,その角度を正確に測量する。次に,天文暦からあの星が南群馬の頭上に巡ってくる時を割り出す。その日その時刻に,二か所,例えば前橋と高崎において北極星に向かい,先に定めた2つの星を二見浦で測量したと同じ三角形の位置と角度に捉える地点を求める。そうして求めた2地点を結ぶと,その延長に伊勢二見浦がある,というのだ。ちなみに,中国の僧観勒が602年に暦,天文地理,遁甲方術の書を日本にもたらしたと日本書紀に記されているが,実際には暦も星宿図も天測術も既に渡来人によって持ち込まれていたらしい。
 では,群馬の古墳や古寺が伊勢とどう結びつくのであろうか? 伊勢二見浦には海面に突き出た2つの岩があって,春分と秋分には太陽が正確にその岩間から昇る。人々はそれを遥拝して霊の復活を祈り,原始太陽信仰の聖地となった。加えて,温暖で風光明媚な土地柄から,そこは常世(とこよ)に擬せられた神仙境であった。つまり,伊勢二見浦は古来より,“霊が復活に備えて憩う”有難い特別な場所であったのだ。だから,古代群馬の人々は,その霊験にあやかろうと,はるか伊勢二見浦を指向する方位線上に寺と墓を築いたのであろうか。県下には八角墳(三津谷古墳)や呪術を操る祭司の埴輪や不老長寿の実とされた桃の種など道教にまつわるものが多く見つかっているので,神仙思想も星信仰も恵方信仰も伝わっていたに違いない。「謎の方位線」上に唯一現存する妙見寺は江戸初期に再興されたものらしいが,古くは「七星山息災寺」と号したというから,大昔この辺りに星を見上げていた人々がいたことは想像に難くない。
 それにしても,6〜8世紀の時代に,当事者間に墓や寺を一方位線上に並べる意思の疎通や連携があったとは考えにくい。私は,先ず方位線ありきではなく,彼らがある“恵方”信仰に従って一定の星まわりの下に墓や寺を築いた結果,それらが一方位線上に並ぶことになったのではないかと推理する。その恵方こそ,あの有難い伊勢二見浦を指していたのだ。そして,古墳はその方位線と被葬者一族の支配圏の境界線の交差する所に,古寺はその方位線上で息災と鎮護を祈願すべく(当時人々が「烟(けむり)岳(だけ)」と恐れていた)榛名山をほぼ直角に見据える場所に,それぞれ建造されたのではないだろうか。証拠はあるのかって? そんなものはない。あるのは吾が“古代”妄想のみ。


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