巨匠の技を陰で支えた職人たち
田中 富榮(徳島県徳島市)
私は日曜日の朝9時〜10時までの1時間,NHKテレビ「日曜美術館」を楽しんでみている。平成24年10月7日の「日曜美術館」は横山大観,「生々流転」の絵巻を通して「巨匠の技を陰で支えた職人たち」との交流物語であった。大観は長さ40メートルにも及ぶ大作絵巻「生々流転」を水墨画で描くに当たって,職人の技を生かした越前和紙を選んだ。その第一人者である「初代岩野平三郎」和紙職人に90通近い手紙のやりとりをして,自分が理想とする和紙についての注文をした。岩野は大観の思いに沿えるよう和紙の技術に創意工夫を重ね,200枚の和紙を漉いたが,大観の理想とする和紙に応えられなかったので,しかたなく「生々流転」は今まで描きなれた絹地に変更して描いたのである。
岩野は和紙の研究を追求し大正末期に内藤湖南からの依頼を受けて,中国伝来の麻の繊維を研究し越前和紙による日本画用紙「雲肌朝紙」を発明した。画壇と交流しながら和紙研究を続け,その紙は日本画の大家たちに愛用され,近代日本画発展の陰の立役者となった。
1925年,横山大観が早稲田大学図書館の壁画を描くときの和紙を岩野平三郎に依頼した。継ぎ目のない一枚和紙の巨大和紙作りに挑戦。岩野は日本の田植え風景にヒントを得て,職人が横一列に並んで長さ5メートル40センチ,重さ12キロの「岡大紙」を漉き上げたのである。岡大紙に描かれた横山大観,下村観山合作の壁画「明暗」は,初代岩野平三郎の職人魂に火をつけた和紙が,陰でしっかりと支えている。岩野は絵描きが何を求めているかを研究した和紙職人であった。平成24年11月徳島県立博物館で人間国宝の作品展が開催された折,手漉き和紙の分野の中に「越前奉書」(八代岩野市兵衛,九代岩野市兵衛)の作品が展示されており,私は初めて「越前和紙」を拝見した。見るからに強靭で長持ちしそうな和紙であった。
「生々流転」を描いた大観の変幻自在の筆さばき。その筆を一手に引き受けたのが「二代目宮内市松」である。大観専用の筆づくり職人であった。市松は大観の好みを徹底研究し,ムササビ,イタチ,シカの毛を混ぜて筆をつくった。市松がつくった筆は毛先が急に細くなっていて水分を多く含み含蓄性があり,筆の腰が強く「大観清賞」を作り上げた。大観屏風「夜桜」は市松の筆で描いた作品。今も東京神田で四代目が日本画材「得應軒」を守っている。四代目の話によれば,市松は大観と親交が深く「いっちゃんいる?」と店に入ってきたそうである。大観は生涯市松の筆しか使わなかった。
40メートルもの「生々流転」すべての表装をまかされたのが「表具師寺内新太郎」である。大観は自分の画室に誰も人を入れなかったが,寺内だけは例外で自由に出入りが出来た弟子のような存在であった。「新ちゃん」といって可愛がった。「生々流転」を描く場合,寺内は先ず3メートル60センチの木枠に絹を貼る。絹地は全部で12枚。そこに大観が絵を描く。大観は片っ端からぶっつけで描いてゆくので絵が出来るまでにどんどん変わってゆく。普段から描き直しが多かった。途中で描き損じたとき寺内が新たな絹地に貼り替え,大観が12枚の絹地全部を描き終えたらそれを並べて最後に表装を施すのである。それで寺内は常に大観の側に寄り添い,大観が描く絵を最初から最後まで見ており,描き直しの時は素早く絹地を貼り替える。それで画室を自由に出入りできたのである。東京台東区谷中の店「寺内遊神堂」は大観が考えてつけた屋号である。
「日曜美術館」を見終わって名画は画家一人だけでは生まれないということがよくわかった。大観の代表作「生々流転」も和紙、筆、表具師の連携プレーでその道一筋に生きる職人技に支えられて,すばらしい大作が誕生した。これらの職人たちはお互いの心を知りつくして,一人の画家のために精魂をこめて生涯大観に協力を惜しまなかった。そしてよりすばらしい和紙や筆や表具をつくる研究を重ね,大観の要求に応えるべく開発に努力した。日本美術はこれらの名匠があってこそ生まれたことを誰よりも大観自身が理解しており,昭和5年イタリアのローマで日本美術を紹介する展覧会に,大観は「夜桜」を選んだ。越前和紙に大観清賞の筆を用い寺内が表装をして完成した大観屏風「夜桜」。晴れの舞台の飾りつけをしたのは大観が連れていった寺内であった。そして時の国王エマヌエーレ三世に大観は市松の筆101本を献上している
第27回国民文化祭・とくしま2012が開催された折,「墨絵美の世界」の展示会が催された。数々の名画の中に一際目をひく大観の「生々流転」が展示されており,千変万化する大自然の姿を描いた大作を拝観できたのは幸運であった。
田中 富榮(徳島県徳島市)
私は日曜日の朝9時〜10時までの1時間,NHKテレビ「日曜美術館」を楽しんでみている。平成24年10月7日の「日曜美術館」は横山大観,「生々流転」の絵巻を通して「巨匠の技を陰で支えた職人たち」との交流物語であった。大観は長さ40メートルにも及ぶ大作絵巻「生々流転」を水墨画で描くに当たって,職人の技を生かした越前和紙を選んだ。その第一人者である「初代岩野平三郎」和紙職人に90通近い手紙のやりとりをして,自分が理想とする和紙についての注文をした。岩野は大観の思いに沿えるよう和紙の技術に創意工夫を重ね,200枚の和紙を漉いたが,大観の理想とする和紙に応えられなかったので,しかたなく「生々流転」は今まで描きなれた絹地に変更して描いたのである。
岩野は和紙の研究を追求し大正末期に内藤湖南からの依頼を受けて,中国伝来の麻の繊維を研究し越前和紙による日本画用紙「雲肌朝紙」を発明した。画壇と交流しながら和紙研究を続け,その紙は日本画の大家たちに愛用され,近代日本画発展の陰の立役者となった。
1925年,横山大観が早稲田大学図書館の壁画を描くときの和紙を岩野平三郎に依頼した。継ぎ目のない一枚和紙の巨大和紙作りに挑戦。岩野は日本の田植え風景にヒントを得て,職人が横一列に並んで長さ5メートル40センチ,重さ12キロの「岡大紙」を漉き上げたのである。岡大紙に描かれた横山大観,下村観山合作の壁画「明暗」は,初代岩野平三郎の職人魂に火をつけた和紙が,陰でしっかりと支えている。岩野は絵描きが何を求めているかを研究した和紙職人であった。平成24年11月徳島県立博物館で人間国宝の作品展が開催された折,手漉き和紙の分野の中に「越前奉書」(八代岩野市兵衛,九代岩野市兵衛)の作品が展示されており,私は初めて「越前和紙」を拝見した。見るからに強靭で長持ちしそうな和紙であった。
「生々流転」を描いた大観の変幻自在の筆さばき。その筆を一手に引き受けたのが「二代目宮内市松」である。大観専用の筆づくり職人であった。市松は大観の好みを徹底研究し,ムササビ,イタチ,シカの毛を混ぜて筆をつくった。市松がつくった筆は毛先が急に細くなっていて水分を多く含み含蓄性があり,筆の腰が強く「大観清賞」を作り上げた。大観屏風「夜桜」は市松の筆で描いた作品。今も東京神田で四代目が日本画材「得應軒」を守っている。四代目の話によれば,市松は大観と親交が深く「いっちゃんいる?」と店に入ってきたそうである。大観は生涯市松の筆しか使わなかった。
40メートルもの「生々流転」すべての表装をまかされたのが「表具師寺内新太郎」である。大観は自分の画室に誰も人を入れなかったが,寺内だけは例外で自由に出入りが出来た弟子のような存在であった。「新ちゃん」といって可愛がった。「生々流転」を描く場合,寺内は先ず3メートル60センチの木枠に絹を貼る。絹地は全部で12枚。そこに大観が絵を描く。大観は片っ端からぶっつけで描いてゆくので絵が出来るまでにどんどん変わってゆく。普段から描き直しが多かった。途中で描き損じたとき寺内が新たな絹地に貼り替え,大観が12枚の絹地全部を描き終えたらそれを並べて最後に表装を施すのである。それで寺内は常に大観の側に寄り添い,大観が描く絵を最初から最後まで見ており,描き直しの時は素早く絹地を貼り替える。それで画室を自由に出入りできたのである。東京台東区谷中の店「寺内遊神堂」は大観が考えてつけた屋号である。
「日曜美術館」を見終わって名画は画家一人だけでは生まれないということがよくわかった。大観の代表作「生々流転」も和紙、筆、表具師の連携プレーでその道一筋に生きる職人技に支えられて,すばらしい大作が誕生した。これらの職人たちはお互いの心を知りつくして,一人の画家のために精魂をこめて生涯大観に協力を惜しまなかった。そしてよりすばらしい和紙や筆や表具をつくる研究を重ね,大観の要求に応えるべく開発に努力した。日本美術はこれらの名匠があってこそ生まれたことを誰よりも大観自身が理解しており,昭和5年イタリアのローマで日本美術を紹介する展覧会に,大観は「夜桜」を選んだ。越前和紙に大観清賞の筆を用い寺内が表装をして完成した大観屏風「夜桜」。晴れの舞台の飾りつけをしたのは大観が連れていった寺内であった。そして時の国王エマヌエーレ三世に大観は市松の筆101本を献上している
第27回国民文化祭・とくしま2012が開催された折,「墨絵美の世界」の展示会が催された。数々の名画の中に一際目をひく大観の「生々流転」が展示されており,千変万化する大自然の姿を描いた大作を拝観できたのは幸運であった。
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