《自由広場》
お遍路さんおいでなして(2)
田中 富榮(徳島県徳島市)
あれからもう5〜6年経ったかなあ。阿南市の文化会館で歌舞伎公演があり,中村富十郎,中村橋之助,片岡愛之助一行の芝居見物に出かけたときのことである。徳島駅の車内で出発時間を待っていた。朝10時過ぎの時間帯はガラ空きで5〜6人の乗客がぽつんと腰かけているだけだった。発車時間が近づいてきたとき,青年のお遍路さんが一人乗ってきて私の前で吊革をにぎって立ったのである。ガラ空きなのでどこかへ腰をかけるのかなあと,私はしばらくお遍路さんの様子を見ていたが腰かける気配もない。それで横に置いていた私のハンドバッグを膝の上に置き,「どうぞここへお掛けください。立っているのもしんどいでしょう」と声をかけた。青年はニコッと笑って,背負っているリュックサックをおろし,私の横へ並んで腰をおろした。
阿南行きの列車に乗るのだから19番札所の立江寺をお参りするのであろうと思い,「これから立江寺へ行かれるのですか?」と話しかけると,「そうです。京都を朝早く出たのですが大型連休でしょ,車がつかえて高速バスものろのろ運転だから4時間も遅れ今やっと徳島駅へ着いたのです」「そういえば今日から5月の連休が始まったところですね。四国も橋が架かったので,マイカーでやってくる観光客が増えて道路は渋滞が続きますね」「予定がずれてしまったので今日は立江寺だけにして,鶴林寺の近くまで歩いてどこかへ泊まります」。
徳島駅から立江駅までは約40分である。お遍路さんと会話しながら列車に揺られていると,「そういえば徳島には田中富榮さんという人が高野山教報に随筆を書いておられますが,あなたご存知ですか?」 と急にわたしの名前を言ったのでびっくりした。列車に飛び込んできた知らないお遍路さんに,こんなところでいきなり田中富榮と自分の名前を言われるとは思いもしなかった。「あなた高野山教報を読んでおられるのですか?」と尋ねた。「僕は高野山大学の学生です。5月の連休や正月休みなどを利用して歩き遍路をしています。いつも行けるところまで行って,途中気に入った山があれば遍路道でなくても登って,自由気ままに自分の好きなように四国の山を歩いているのです」。彼は田中富榮が横にいることなどつゆ知らず,遍路の楽しさをいろいろ語って聞かせてくださった。立江駅がだんだん近づいてきた。「実は私が田中富榮です」と言った。「エッ! あなたが田中富榮さん?」。不意打ちをくらったようなキョトン!とした顔をしてびっくりしていた。「偶然とはいえふしぎな出会いですね。私もあなたに自分の名前を呼ばれるなど,思いもしなかったですよ」。しばらく二人の会話がとぎれた。そして「バスが4時間遅れてよかった! 定刻どおり徳島に着いていたら田中さんに会えなかった!」とポツンと言った。「大したことも書いていない私の文章を毎月読んでくださってありがとう。うれしいです」とお礼を述べた。
彼は別れ際にご自分の住所と名前を書いて「毎月の高野山教報を楽しみにしています」と言って置き札を私にくださった。「無事にお遍路の旅が終えられますようお祈りしています。お気をつけていってらっしゃーい」と手を振った。列車がホームを通り過ぎてゆくまで見送ってくださった。
たった40分間の出会いであったが,私の随筆を読んでくださる人にお会いできたうれしさから,これも「縁」だと思い,連休も終わり何日か過ぎてから私の本をお接待のつもりで差し上げた。短い出会いだが,それ以来年賀状のやり取りが今も続いている。年一回の便りによると,彼はその後四国全土を廻り終え,お先達の資格も取得されたと知らせてくださった。 これからも暇を見つけては歩き遍路をするそうである。会社勤めの忙しい合間をやりくりしての短い休暇でも,遍路旅をしようと思う気持ちがあれば,四国の大自然はいつでもお遍路さんを迎えてくれる。
先般,三九出版の「本物語」36号を彼に送ってあげたら,「田中さん,善根宿をしているのですね。いつになるかわかりませんが,僕も17番札所の井戸寺を参る機会があれば,そのときには田中さんの家でお世話になりたいです。楽しみにしています」というメールをいただいた。「あのときは何のお接待もしてあげず,ごめんなさいね。阿波を歩く機会があれば,必ず私の家へお立ち寄りください。お待ちしております」と私もメールした。
今考えてもふしぎでならない。ガラ空きの車内でありどこへでも腰をかけられるのに,わざわざ私の真ん前で吊革を持って立っている。背負っているリュックサックをおろすのがめんどうくさかったのだろうか。そして横に来て「田中富榮さん知っていますか」と尋ねるふしぎさ。お大師さんのお導きだったのではあるまいか。
立江駅 手を振る遍路遠ざかる
お遍路さんおいでなして(2)
田中 富榮(徳島県徳島市)
あれからもう5〜6年経ったかなあ。阿南市の文化会館で歌舞伎公演があり,中村富十郎,中村橋之助,片岡愛之助一行の芝居見物に出かけたときのことである。徳島駅の車内で出発時間を待っていた。朝10時過ぎの時間帯はガラ空きで5〜6人の乗客がぽつんと腰かけているだけだった。発車時間が近づいてきたとき,青年のお遍路さんが一人乗ってきて私の前で吊革をにぎって立ったのである。ガラ空きなのでどこかへ腰をかけるのかなあと,私はしばらくお遍路さんの様子を見ていたが腰かける気配もない。それで横に置いていた私のハンドバッグを膝の上に置き,「どうぞここへお掛けください。立っているのもしんどいでしょう」と声をかけた。青年はニコッと笑って,背負っているリュックサックをおろし,私の横へ並んで腰をおろした。
阿南行きの列車に乗るのだから19番札所の立江寺をお参りするのであろうと思い,「これから立江寺へ行かれるのですか?」と話しかけると,「そうです。京都を朝早く出たのですが大型連休でしょ,車がつかえて高速バスものろのろ運転だから4時間も遅れ今やっと徳島駅へ着いたのです」「そういえば今日から5月の連休が始まったところですね。四国も橋が架かったので,マイカーでやってくる観光客が増えて道路は渋滞が続きますね」「予定がずれてしまったので今日は立江寺だけにして,鶴林寺の近くまで歩いてどこかへ泊まります」。
徳島駅から立江駅までは約40分である。お遍路さんと会話しながら列車に揺られていると,「そういえば徳島には田中富榮さんという人が高野山教報に随筆を書いておられますが,あなたご存知ですか?」 と急にわたしの名前を言ったのでびっくりした。列車に飛び込んできた知らないお遍路さんに,こんなところでいきなり田中富榮と自分の名前を言われるとは思いもしなかった。「あなた高野山教報を読んでおられるのですか?」と尋ねた。「僕は高野山大学の学生です。5月の連休や正月休みなどを利用して歩き遍路をしています。いつも行けるところまで行って,途中気に入った山があれば遍路道でなくても登って,自由気ままに自分の好きなように四国の山を歩いているのです」。彼は田中富榮が横にいることなどつゆ知らず,遍路の楽しさをいろいろ語って聞かせてくださった。立江駅がだんだん近づいてきた。「実は私が田中富榮です」と言った。「エッ! あなたが田中富榮さん?」。不意打ちをくらったようなキョトン!とした顔をしてびっくりしていた。「偶然とはいえふしぎな出会いですね。私もあなたに自分の名前を呼ばれるなど,思いもしなかったですよ」。しばらく二人の会話がとぎれた。そして「バスが4時間遅れてよかった! 定刻どおり徳島に着いていたら田中さんに会えなかった!」とポツンと言った。「大したことも書いていない私の文章を毎月読んでくださってありがとう。うれしいです」とお礼を述べた。
彼は別れ際にご自分の住所と名前を書いて「毎月の高野山教報を楽しみにしています」と言って置き札を私にくださった。「無事にお遍路の旅が終えられますようお祈りしています。お気をつけていってらっしゃーい」と手を振った。列車がホームを通り過ぎてゆくまで見送ってくださった。
たった40分間の出会いであったが,私の随筆を読んでくださる人にお会いできたうれしさから,これも「縁」だと思い,連休も終わり何日か過ぎてから私の本をお接待のつもりで差し上げた。短い出会いだが,それ以来年賀状のやり取りが今も続いている。年一回の便りによると,彼はその後四国全土を廻り終え,お先達の資格も取得されたと知らせてくださった。 これからも暇を見つけては歩き遍路をするそうである。会社勤めの忙しい合間をやりくりしての短い休暇でも,遍路旅をしようと思う気持ちがあれば,四国の大自然はいつでもお遍路さんを迎えてくれる。
先般,三九出版の「本物語」36号を彼に送ってあげたら,「田中さん,善根宿をしているのですね。いつになるかわかりませんが,僕も17番札所の井戸寺を参る機会があれば,そのときには田中さんの家でお世話になりたいです。楽しみにしています」というメールをいただいた。「あのときは何のお接待もしてあげず,ごめんなさいね。阿波を歩く機会があれば,必ず私の家へお立ち寄りください。お待ちしております」と私もメールした。
今考えてもふしぎでならない。ガラ空きの車内でありどこへでも腰をかけられるのに,わざわざ私の真ん前で吊革を持って立っている。背負っているリュックサックをおろすのがめんどうくさかったのだろうか。そして横に来て「田中富榮さん知っていますか」と尋ねるふしぎさ。お大師さんのお導きだったのではあるまいか。
立江駅 手を振る遍路遠ざかる
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