miniミニJIBUNSHI
☆超音波医学国際会議出席異聞(3) アルバイト船医奮闘記
和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)
1956年,貨物船船医のアルバイトをしながら米国での国際会議に出席,成功した話は,『本物語』第38号に寄稿した。船医物語としては,北杜夫の『どくとるマンボー航海記』が有名であるが,これは無名の一外科医のささやかな船医経験物語である。当時は外航貨物船は船医の乗船が義務づけられていた。医務室は診察室,手術室,居室の3室からなる立派なもので,船医はサロン士官として船長以下のサロン士官と一緒に食事を取った。当時の貨物船には約50名ほどの健康な船員が乗船しており,このため船医は何とも暇な職務だった。
1956年6月,貨物船船医として初渡米,国際会議出席発表という大任を果たし,後は一路帰心矢の如き思いだったところに,本船が急にキューバに寄港することになったと知らされた。 これはまたと無いチャンスとばかりに,期待に胸が弾む思いだった。本船はキューバ東北部のヌビタス港に着いた。港といっても,荒野の海岸に木造の桟橋が一本突き出ているだけで,ここで大量のバナナを積み込むとのことだった。しかし鉄道も無く,どのようにするのかと思っていたら,湾内の島影からバナナを満載した多数の小さい手漕船が,雲霞の如く本船に近づいて来た。これには驚くと同時に,本船への積み込み作業に1週間は掛かるとの説明が納得された。ある夕べ,船員が山向こうの村で,カーニバルをやっていることを聞きつけ,何人かの船員と夕方から見物に出掛けたことがあった。山を2,3越えて村に到着したのは,深夜になっていた。村の広場には多くの村人が集まり,多くの露店や音楽演奏など,賑やかなお祭りをやっていた。その内,広場の対称の入り口から,男女の若者が夫々列を組んで,音楽に合わせて広場に入ってきた。それから,お互いに声を掛け合いながら,広場を回って行進する内に,相手を見つけダンスなどに興ずるのであった。これらの珍しい楽しいお祭を見物,地ビールやキューバ料理を堪能後,また歩いて帰船したのは明け方だった(若さに乾杯)。以上がカストロキューバ革命の3年前の平和なキューバの姿で,後年大宅壮一『世界の裏街道を行く』でも紹介された。8月上旬,3ヶ月の航海後,横浜に帰港した。
二度目の航海は,同年8月中旬,1万トン級の鉱石船の船医として東南アジア行きだった。フィリッピン,ルソン島のララップ港に到着,ここから鉄鉱石を日本に運搬するのだった。見ていると,岸壁に野積みされた膨大な鉄鉱石を大型の篭に入れ,これを一個ずつクレーンで広大な船倉に積み込む原始的な方法だったので,1週間以上も掛かるのは当然と思われた。本船の停泊中,本船警備の現地警官から,近くの村でのお祭り見物に,夕刻武装警官護衛付きのジープで案内されたことがあった。村の祭りは,多くの露店や賑やかな音楽で賑わっていた。祭りに近づくと,酔った現地人が我々を日本人と知って,口汚く罵ったり石を投げつけたり,警官が制止しても止まず,危険を感じて警官と一緒に逃げるようにして引き返した。当時日本政府は,「最早戦後ではない」と言っていたが,東南アジアでは,まだ「戦後」が継続していることが実感させられた。
また,本船停泊中に,船員の腹痛患者が発生,診察の結果,盲腸(虫垂炎)と診断,船員患者の希望もあり本船で手術することになった。これは外科医の船医の面目発揮のチャンスと思い,早速,手術器具を点検すると足りないものに気が付いた。それで,現地の病院を訪問,手術器具類と一緒に看護婦さんを借りることにした。現地の村の病院の院長は私の依頼を快く承知,明朝,看護婦さんが手術器具類を持って本船を訪問することになった。帰船すると,患者は大分良くなってきたようで,抗生物質を投与して一晩様子を見ることにした。翌朝,現地病院の美人の看護婦さんが現れた。しかし,患者の症状は改善し,これでは日本帰港まで持つと思われ,手術は中止と決定した。看護婦さんにはこの旨伝え,船内最上のご馳走をして,大変喜んでもらった。
次は,ポケットモンキーの尻尾の短縮手術という珍しい経験について。これは当時,フィリッピン産のポケットモンキーが日本では高く売れたので,船員はゴム長靴やビニールバッグなどを用意して,現地で物々交換していた。このポケットモンキーは尻尾が短いほど高く売れるとのことで,私が尻尾の短縮術を頼まれた。こんなことは外科医であっても習ったこともなく,仕方なく剃毛,局所麻酔,切断,皮膚縫合と正規の手術を行った。しかし,翌日見ると,モンキーはこの縫合糸を食いちぎって,傷口を舐めているのを見て驚いてしまった。これを見て,古手の船員が笑いながら,尻尾を糸できつく結んでおけば,ひとりでに尻尾が落ちるものと教えられた。これで,名外科医の面目失墜というお笑いで幕となった。以上が初経験の船医の“こぼれ話”。
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☆超音波医学国際会議出席異聞(3) アルバイト船医奮闘記
和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)
1956年,貨物船船医のアルバイトをしながら米国での国際会議に出席,成功した話は,『本物語』第38号に寄稿した。船医物語としては,北杜夫の『どくとるマンボー航海記』が有名であるが,これは無名の一外科医のささやかな船医経験物語である。当時は外航貨物船は船医の乗船が義務づけられていた。医務室は診察室,手術室,居室の3室からなる立派なもので,船医はサロン士官として船長以下のサロン士官と一緒に食事を取った。当時の貨物船には約50名ほどの健康な船員が乗船しており,このため船医は何とも暇な職務だった。
1956年6月,貨物船船医として初渡米,国際会議出席発表という大任を果たし,後は一路帰心矢の如き思いだったところに,本船が急にキューバに寄港することになったと知らされた。 これはまたと無いチャンスとばかりに,期待に胸が弾む思いだった。本船はキューバ東北部のヌビタス港に着いた。港といっても,荒野の海岸に木造の桟橋が一本突き出ているだけで,ここで大量のバナナを積み込むとのことだった。しかし鉄道も無く,どのようにするのかと思っていたら,湾内の島影からバナナを満載した多数の小さい手漕船が,雲霞の如く本船に近づいて来た。これには驚くと同時に,本船への積み込み作業に1週間は掛かるとの説明が納得された。ある夕べ,船員が山向こうの村で,カーニバルをやっていることを聞きつけ,何人かの船員と夕方から見物に出掛けたことがあった。山を2,3越えて村に到着したのは,深夜になっていた。村の広場には多くの村人が集まり,多くの露店や音楽演奏など,賑やかなお祭りをやっていた。その内,広場の対称の入り口から,男女の若者が夫々列を組んで,音楽に合わせて広場に入ってきた。それから,お互いに声を掛け合いながら,広場を回って行進する内に,相手を見つけダンスなどに興ずるのであった。これらの珍しい楽しいお祭を見物,地ビールやキューバ料理を堪能後,また歩いて帰船したのは明け方だった(若さに乾杯)。以上がカストロキューバ革命の3年前の平和なキューバの姿で,後年大宅壮一『世界の裏街道を行く』でも紹介された。8月上旬,3ヶ月の航海後,横浜に帰港した。
二度目の航海は,同年8月中旬,1万トン級の鉱石船の船医として東南アジア行きだった。フィリッピン,ルソン島のララップ港に到着,ここから鉄鉱石を日本に運搬するのだった。見ていると,岸壁に野積みされた膨大な鉄鉱石を大型の篭に入れ,これを一個ずつクレーンで広大な船倉に積み込む原始的な方法だったので,1週間以上も掛かるのは当然と思われた。本船の停泊中,本船警備の現地警官から,近くの村でのお祭り見物に,夕刻武装警官護衛付きのジープで案内されたことがあった。村の祭りは,多くの露店や賑やかな音楽で賑わっていた。祭りに近づくと,酔った現地人が我々を日本人と知って,口汚く罵ったり石を投げつけたり,警官が制止しても止まず,危険を感じて警官と一緒に逃げるようにして引き返した。当時日本政府は,「最早戦後ではない」と言っていたが,東南アジアでは,まだ「戦後」が継続していることが実感させられた。
また,本船停泊中に,船員の腹痛患者が発生,診察の結果,盲腸(虫垂炎)と診断,船員患者の希望もあり本船で手術することになった。これは外科医の船医の面目発揮のチャンスと思い,早速,手術器具を点検すると足りないものに気が付いた。それで,現地の病院を訪問,手術器具類と一緒に看護婦さんを借りることにした。現地の村の病院の院長は私の依頼を快く承知,明朝,看護婦さんが手術器具類を持って本船を訪問することになった。帰船すると,患者は大分良くなってきたようで,抗生物質を投与して一晩様子を見ることにした。翌朝,現地病院の美人の看護婦さんが現れた。しかし,患者の症状は改善し,これでは日本帰港まで持つと思われ,手術は中止と決定した。看護婦さんにはこの旨伝え,船内最上のご馳走をして,大変喜んでもらった。
次は,ポケットモンキーの尻尾の短縮手術という珍しい経験について。これは当時,フィリッピン産のポケットモンキーが日本では高く売れたので,船員はゴム長靴やビニールバッグなどを用意して,現地で物々交換していた。このポケットモンキーは尻尾が短いほど高く売れるとのことで,私が尻尾の短縮術を頼まれた。こんなことは外科医であっても習ったこともなく,仕方なく剃毛,局所麻酔,切断,皮膚縫合と正規の手術を行った。しかし,翌日見ると,モンキーはこの縫合糸を食いちぎって,傷口を舐めているのを見て驚いてしまった。これを見て,古手の船員が笑いながら,尻尾を糸できつく結んでおけば,ひとりでに尻尾が落ちるものと教えられた。これで,名外科医の面目失墜というお笑いで幕となった。以上が初経験の船医の“こぼれ話”。
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