有限会社 三九出版 - 群馬「多胡碑」の謎を追う


















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                    群馬「多胡碑」の謎を追う

                            成田 攻(東京都豊島区)

 高崎市の南西部,鏑川の近くに,多胡碑と呼ばれる国の特別史跡がある。縦横61センチ,高さ125センチの砂岩の石柱に漢字80文字が刻まれている。その内容は,大和朝廷が「片岡郡,緑野郡,甘良郡から300戸を分割して多胡郡とし,羊に給う」と公示した弁官符である。(この史実は続日本書紀で確認されている。)和銅4年(711)というから,都が奈良に移ったばかりであった。羊とは新羅系渡来人で,秩父銅山(和銅)の開発に大きな貢献をしてこの地を拝領したらしい。胡とは異民族,多胡郡は「多くの異民族が住む郷」を意味する。4世紀以来,大陸・朝鮮半島から多くの人々が日本海を渡って渡来し,「越→《上野》→武蔵,甲斐,大和」へと浸透していった。だから,技術をもった上野の渡来人集団の動静は,当時すでに大和朝廷にとって重大関心事であったらしい。律令体制下,朝廷が渡来人の郷に渡来人を郡司に任命して治めさせ,ある種の自治権を公認したのは,画期的なことであったに違いない。天下晴れて安住の地を得た渡来人たちは歓喜し,弁官符の文言をモニュメント(碑)に刻んで郡衙(役場)に建て,「多胡よ,永遠なれ」と叫んだことであろう。
 北関東一円に古くより「羊太夫」又は「ひつじさま」なる伝説が語り伝えられている。上野国多胡郡の郡司・羊太夫は駿馬を駆って都に日参し朝廷に忠節を尽くしていた。が,ある日,疾速のお供・小脛の脇の下に羽があるのを見つけ昼寝の間に悪戯して抜いてしまい,都に参内できなくなってしまった。すると羊太夫に謀反の企てありと讒奏する者があり,多胡郡は朝廷が差し向けた軍勢に包囲され,ついに力尽きた羊太夫は金色の蝶となって西の空へ飛び去った,という。 養老5年(721)とあるから,“渡来人自治区”はわずか10年で幻と消えたことになる。実際には何があったのだろうか。「神話の旅人」(小松崎文夫)は,都で権勢を振るった藤原不比等が養老4年に急逝し,その後継をめぐる中央の権力争いに羊太夫は巻き添えを食ったのではないか,と推理する。それが証拠に,多胡郡の創設を上申した鋳銭司・多治比真人も弁官符を発した太政官・穂積朝臣も前後して謀反の誣告で島流しにされている。 はてさて,頭領を失った多胡の人々は,石もて追われいずこへ消え去ったのであろうか?
 ところで,私は多胡碑の存在を知ったとき,高校の漢文で習った「紫髯緑眼の胡人」が月に向かって胡笳(笛)を吹く,という幻想的な詩を思い出した。つまり,赤毛の髯をたくわえ灰色の目をした西方の異人を連想したのだ。そういう人たちが渡来人の中に混じっていたとしても,あながちあり得ないことではないだろう。現に,かの伝説は羊太夫が身の丈七尺五寸の長身であったと伝えている。民間の伝承をあなどってはいけない。小脛の羽もギリシャ神話のペガサス(天馬)の飛天伝承に由来しているように思えるし,羊太夫が最期に金色の蝶となって飛び去ったというのも彼がモンゴル系の東洋人ではなかったことを意味しているのではないだろうか。そもそも,「羊」は「日本の苗字七千傑」の中にはないし,漢民族の姓でもないという。おそらく西方から中国にやってきた異民族が自らを「羊」と名乗ったのであろう。とすれば,彼らが暗示的に己の出自を名前に秘めた可能性もある。羊といえば,旧約聖書の中で羊の群れになぞらえたのはユダヤの民であったが……。
 紀元前722年,アッシリアに攻め込まれた北イスラエル王国の民は迫害を逃れて世界に放浪に出た。このユダヤの「失われた十支族」は,行く先々で同化と混血を重ねながらアフガン,インド,ミャンマー,中国に確かな足跡を残し,さらに朝鮮半島を経て日本に至ったという説もある。たとえば,聖徳太子のブレーン,のち平安京造営の立役者となった秦河勝が渡来帰化人であったことは定説であるが,伝えられる数々のエピソードからそのオリジンはユダヤ人だったとみる向きもある。その氏寺である京都広隆寺に残る河勝の像について,司馬遼太郎が『兜率天の巡礼』の中で「容貌雄勁で眼が大きく鼻が高く西洋風の顔立ち」と表現しているのも興味深い。それはさておき,16世紀初頭,多胡碑が発見された折,JNRIと刻まれた古銅片が一緒に見つかったという言い伝えがある。“JNRI”とは“ユダヤ人の主,ナザレのイエス”のラテン語の頭文字だというのだが,その所在は不明という。
 私は安中市中野谷に羊神社があると聞いて訪ねてみた。田園地帯に小さな鎮守様を拝むように30〜40軒の農家が集落をなしている。なるほど,家々の表札は多胡姓ばかりだ。一説によれば,あの羊一族直系の末裔だという。「そうらしいなぁ」と村の古老はくったくなく笑った。多胡碑から遥か1300年! もし多胡が滅ぼされていなかったら, 彼らが特異な文化をもつ一大勢力をなしていた可能性もある。 今日の群馬は,あるいは日本も,も少し違ったものになっていたかも知れない。

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