miniミニJIBUNSHI
ブラジルに学ぶ
山本 年樹 (神奈川県川崎市)
30年前, 40歳を目前にして私はブラジルに赴任した。 はじめての海外勤務であり,ポルトガル語も初体験であった。任務は,サンパウロに本社のある保険会社に出向して,その経営に携わることであった。現地スタッフは400人,日本人駐在員7人,私は首席代表を補佐するナンバー2の立場であった。人事・総務・経理・財務・システムなどの内部の責任者として常時ブラジル人との折衝があり,その為何といってもポ語の修得が緊急かつ必須の課題であった。
そこで私はひとまず語学研修に専念することとし,サンパウロから南西1000キロの町ポルトアレグレに向かった。そこには支店があり,スタッフ全員がブラジル人という。又,町の中にも日本人がいないという。あえて孤立無援の環境の中に飛び込んで,ポ語を学ぼうという発想であった。空港で私を出迎えて抱擁してくれたのがウーゴ支店長だった。私より5年年上でハンサム,イタリアからの移民の子という。初対面から何となく馬が合うという印象で,私のことを気に入ってくれたようであった。彼はまず私の下宿探しに付き合ってくれ,首尾良くアルバ夫人という方のアパートの1室を借りることができた。新生活が始まった。朝起きてボンジア(お早う)から夜寝る時のボアノイチ(おやすみ)までポ語漬けの毎日であった。とにかく生きていく為には自分の欲しいものをポ語で言うしかない。例えば,アグア(水)レイチ(牛乳)ペイシェ(魚)などなど,手許に辞書が手離せなかった。アルバ夫人は私の世話をやいてくれ,牛や馬の見本市に連れ出してくれたり,彼女の友人の家でのチーズとワインのパーティに誘ってくれたり,近所のマーケットへ買い物に同行した。市場には色どり豊かな果物や野菜が溢れ,手にとったり味わったりして名前も頭にはいっていった。彼女にとっても私は始めての東洋人であり,興味津々質問攻めにあうこともあった。「お前には家族がいるのか,一人で来て淋しくないのか?」「日本人はどんな神を信じているのか?」「日本はどこにあるのか,バスで行くと何日かかるのか?」最後の質問には絶句してしまった。彼女との生活はとても有益で,普段使われている俗語もずい分上達したものゝ,一つだけ失敗談がある。研修が終りサンパウロに戻った時,ついうっかりオブリガーダ(ありがとう)と言ってしまった。彼女の口まねが出たものだが,男の私はオブリガードと言うべきであった。同僚から,「君は何時からおかまになったんだ?」とからかわれ散々だった。
一方,ウーゴ支店長も私のことを何かと気にかけていてくれた。地元のサッカーチームの名物の試合グレナル(グレミオとインテルナショナル戦の略称)では,彼がファンとなっているグレミオのホームで観戦した。サンバを思わせる軽快なリズムの中で選手達が躍動し,攻守が瞬時に反転して見事なボレーシュートが決まる。そのスリリングな展開に,私はブラジルサッカーの虜となった。日本人グレミスタ(グレミオファン)の誕生である。彼は私にグレミオの3色のシャツをプレゼントしてくれ,私の宝物となった。又,休日には私を彼の家に招待してくれた。美人で気さくな奥様と可愛いい4人の子供達が歓迎してくれた。ウーゴはシュラスコ(牛肉の串焼き)専用の小屋を持っており,本人が炭火を熾し,大きな肉塊に岩塩を振り串に刺して焼き上げる。皆の分を切り分けるのも彼の役目である。奥様がサラダや飲物を用意し,賑やかな昼食がはじまる。更に,赤ワインが加わり,一段と話が弾み,居心地の良い時間がゆっくりと流れていく。至福のひとときであった。いつしか私は日本語を介さないでポ語で考えている自分に気づいた。夢の中でもポ語で喋っている自分がいた。語学研修の目的は達したと考え,アルバ夫人やウーゴに別れを告げて3ヶ月ぶりに本社に復帰した。それから家族を呼び寄せ,本格的に業務に取り組み,7年間滞在した。
その頃のブラジルは軍政から民主制への移行期であり,超大型プロジェクト推進により巨額の債務増加,年率100%のハイパーインフレというかってない激動の最中にあった。しかしその中にあっても人々は楽観的で未来は必ず良くなると信じていた。インフレとも上手に付き合って,給料日には家族総出で買い出しをしたり,支払いの方は何かと理由をつけて先に延ばしていた。(1年後には半値に。)人々のたくましい生き方に感心した私は彼等との出会いを通じて,人生にとって大事なことを数多く学んだ。人種や国境を超えて友情が成立することも実感した。ウーゴとはお互いに会社を退職後も遠く離れた親友として文通を重ねてきた。私の夢は,2年後のブラジルワールドカップで彼の地を訪れ,彼と並んで日本とブラジルの対戦を見ることである。勝敗よりは成長した日本が王者ブラジルに果敢に立ち向かう姿を見たいものだ。
ブラジルに学ぶ
山本 年樹 (神奈川県川崎市)
30年前, 40歳を目前にして私はブラジルに赴任した。 はじめての海外勤務であり,ポルトガル語も初体験であった。任務は,サンパウロに本社のある保険会社に出向して,その経営に携わることであった。現地スタッフは400人,日本人駐在員7人,私は首席代表を補佐するナンバー2の立場であった。人事・総務・経理・財務・システムなどの内部の責任者として常時ブラジル人との折衝があり,その為何といってもポ語の修得が緊急かつ必須の課題であった。
そこで私はひとまず語学研修に専念することとし,サンパウロから南西1000キロの町ポルトアレグレに向かった。そこには支店があり,スタッフ全員がブラジル人という。又,町の中にも日本人がいないという。あえて孤立無援の環境の中に飛び込んで,ポ語を学ぼうという発想であった。空港で私を出迎えて抱擁してくれたのがウーゴ支店長だった。私より5年年上でハンサム,イタリアからの移民の子という。初対面から何となく馬が合うという印象で,私のことを気に入ってくれたようであった。彼はまず私の下宿探しに付き合ってくれ,首尾良くアルバ夫人という方のアパートの1室を借りることができた。新生活が始まった。朝起きてボンジア(お早う)から夜寝る時のボアノイチ(おやすみ)までポ語漬けの毎日であった。とにかく生きていく為には自分の欲しいものをポ語で言うしかない。例えば,アグア(水)レイチ(牛乳)ペイシェ(魚)などなど,手許に辞書が手離せなかった。アルバ夫人は私の世話をやいてくれ,牛や馬の見本市に連れ出してくれたり,彼女の友人の家でのチーズとワインのパーティに誘ってくれたり,近所のマーケットへ買い物に同行した。市場には色どり豊かな果物や野菜が溢れ,手にとったり味わったりして名前も頭にはいっていった。彼女にとっても私は始めての東洋人であり,興味津々質問攻めにあうこともあった。「お前には家族がいるのか,一人で来て淋しくないのか?」「日本人はどんな神を信じているのか?」「日本はどこにあるのか,バスで行くと何日かかるのか?」最後の質問には絶句してしまった。彼女との生活はとても有益で,普段使われている俗語もずい分上達したものゝ,一つだけ失敗談がある。研修が終りサンパウロに戻った時,ついうっかりオブリガーダ(ありがとう)と言ってしまった。彼女の口まねが出たものだが,男の私はオブリガードと言うべきであった。同僚から,「君は何時からおかまになったんだ?」とからかわれ散々だった。
一方,ウーゴ支店長も私のことを何かと気にかけていてくれた。地元のサッカーチームの名物の試合グレナル(グレミオとインテルナショナル戦の略称)では,彼がファンとなっているグレミオのホームで観戦した。サンバを思わせる軽快なリズムの中で選手達が躍動し,攻守が瞬時に反転して見事なボレーシュートが決まる。そのスリリングな展開に,私はブラジルサッカーの虜となった。日本人グレミスタ(グレミオファン)の誕生である。彼は私にグレミオの3色のシャツをプレゼントしてくれ,私の宝物となった。又,休日には私を彼の家に招待してくれた。美人で気さくな奥様と可愛いい4人の子供達が歓迎してくれた。ウーゴはシュラスコ(牛肉の串焼き)専用の小屋を持っており,本人が炭火を熾し,大きな肉塊に岩塩を振り串に刺して焼き上げる。皆の分を切り分けるのも彼の役目である。奥様がサラダや飲物を用意し,賑やかな昼食がはじまる。更に,赤ワインが加わり,一段と話が弾み,居心地の良い時間がゆっくりと流れていく。至福のひとときであった。いつしか私は日本語を介さないでポ語で考えている自分に気づいた。夢の中でもポ語で喋っている自分がいた。語学研修の目的は達したと考え,アルバ夫人やウーゴに別れを告げて3ヶ月ぶりに本社に復帰した。それから家族を呼び寄せ,本格的に業務に取り組み,7年間滞在した。
その頃のブラジルは軍政から民主制への移行期であり,超大型プロジェクト推進により巨額の債務増加,年率100%のハイパーインフレというかってない激動の最中にあった。しかしその中にあっても人々は楽観的で未来は必ず良くなると信じていた。インフレとも上手に付き合って,給料日には家族総出で買い出しをしたり,支払いの方は何かと理由をつけて先に延ばしていた。(1年後には半値に。)人々のたくましい生き方に感心した私は彼等との出会いを通じて,人生にとって大事なことを数多く学んだ。人種や国境を超えて友情が成立することも実感した。ウーゴとはお互いに会社を退職後も遠く離れた親友として文通を重ねてきた。私の夢は,2年後のブラジルワールドカップで彼の地を訪れ,彼と並んで日本とブラジルの対戦を見ることである。勝敗よりは成長した日本が王者ブラジルに果敢に立ち向かう姿を見たいものだ。
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