『平々凡々たる日常の中で』
富田源太郎(愛知県名古屋市)
腎臓は血液のクリーナーの役割を果たしている。腎臓の機能が低下してくると老廃物や水分をうまく排泄できなくなる。さらに腎不全が進行すると自力では生きてゆけなくなり,人工透析のお世話になる。そうなると平均週3日,1日4時間ベッドに横たわり,血液を体外に出して(ダイアサイダーという装置で)血液を濾過する治療を行う。この治療は腎機能を回復させるものではなく生命を維持する治療である。腎機能を回復させる方法は,唯一腎移植である。ドナーとレシピエントの体力が考慮されて腎移植の上限は65歳と定められている。30歳台で腎臓を患った私は今,古希を迎えようとしているので人工透析のみが生命を維持する方法である。
約30万人の人工透析者の最大の屈託はいっ果てるともわからぬ漠たる不安の中にいることだ。私は今年2010年末には透析回数が2500回を超える。
「声が昔と全く変わっていない」「元気ですね」「若々しいですね」「自己管理が行き届いていますね」「無理な透析していませんよ」……友人 病院スタッフより称賛の言葉をよく貰う。これがなんともくすぐったい。自分としては特別な努力など何もしていないのだから。
私の普段は,食事は妻の手になるものを過不足なく完食する(誰でもがしていること),非透析日は4キロの散歩(これも多くの人が実行している。散歩歴16年),趣味としての読書(ほぼ月に10冊。図書館の利用者の多いこと),そしてその延長,あるいは関連として小説を書くこと(世にこの趣味を持つ人の何と多いことか)で過ぎている。透析,食事,散歩,読書,創作,いずれも平々凡々たる日常を積み重ねているだけに過ぎず,特筆すべき事柄は何もなく,周囲の皆さんに褒め称えられるようなことは何もしていない。
そんな中で私が特に楽しみとしているのは“創作”である。これまで明智光秀,濃姫について著してきたが,今,第3作目に挑戦,完成しつつある。主題は私が住む尾張藩7代藩主徳川宗春とその座を奪った8代将軍徳川吉宗との確執である。視点は地域偏重で?宗春を中心にしている。
吉宗は,テレビの影響でか,武の人としてイメージが定着しているようだが,実は徹底した法制主義者だ。幕府の赤字財政を立て直すためには質素倹約が最善の道筋だとして,あれもいかん,これもいかん,かんざし・くしの色,着物の裏地の色にまで統制が及んだ。吉宗が紀州藩主になったのは宝永2年(1705),22歳。父光貞の濫費により藩財政は大赤字の危機に瀕していた。吉宗は質素を宗とする星の下に生まれたようだ。江戸城に入っても4月〜9月は素足,素袷,一汁二菜,一日二食が日常の生活で,奇を衒った訳ではない。
気っ風の良い町人,有力商人にとっては息が詰まるような法の縛りであった。そこへ,「法は三条もあればよい。金のあるものが使ってこそ物が動く」という,性善説の宗春(藩主になったのは享保15年・35歳)が登場した。
尾張藩江戸藩邸で万五郎の初節句を祝って各種幟を80本近く揚げ(家康拝領の幟もあった),家重代の家宝の菖蒲兜などを華々しく飾り,江戸っ子を邸内に入れて見物させた。江戸町人の喜ぶまいことか。それに,地元名古屋へ藩主として初入府するや,それまで禁止されていた踊りの許可,歌舞音曲を許し,数十軒の歌舞伎・狂言の板張常設小屋の建設と藩士郎党,中間の見物自由,三遊郭(郊外に設立,市域の拡大)など,新政策を連発した。「京にも勝る賑わい。名古屋に生まれた幸せ」と町の人の賞賛を得た。名古屋の町起こしは成功し,人口は4割増加,三都(江戸,京,大坂)に次ぐ都へと成長させた。この華美が質素倹約政策の吉宗と対立しない筈がない。やがて追われる身となる。さてその後は……となるわけであるが,地元尾張名古屋の住人が想像と創造を絡ませながらの筆運びは実に楽しい。
もう一つ。高校時代から交友を続けている仲間がいる。名付けて「八駿会」。それが今年結成50周年を迎えたので,面々が活躍する『堀川捕物帳』(堀川は名古屋城築城の折,木曾の材木を運ぶため福島正則が開削した城下舟運の大動脈)を昨年12月に脱稿した。「俺はこんなキャラじゃない」と,あちこちからブーイングが出そうだが。
さらにもう一つ。大学時代の友人N君に「たまには方向転換して恋愛小説を書け。俺が添削をして原稿を真っ赤にしてやる」と言われて半年が経つ。妙な対抗心がわいてきて(彼は「自分は恋愛の達人,お前は恋愛音痴」と断じている),「ヨーシ,今年は恋愛小説に挑んでみよう」と思っている。
それにしてもこのような夢を追いかけていると,透析も友となるから不思議である。
富田源太郎(愛知県名古屋市)
腎臓は血液のクリーナーの役割を果たしている。腎臓の機能が低下してくると老廃物や水分をうまく排泄できなくなる。さらに腎不全が進行すると自力では生きてゆけなくなり,人工透析のお世話になる。そうなると平均週3日,1日4時間ベッドに横たわり,血液を体外に出して(ダイアサイダーという装置で)血液を濾過する治療を行う。この治療は腎機能を回復させるものではなく生命を維持する治療である。腎機能を回復させる方法は,唯一腎移植である。ドナーとレシピエントの体力が考慮されて腎移植の上限は65歳と定められている。30歳台で腎臓を患った私は今,古希を迎えようとしているので人工透析のみが生命を維持する方法である。
約30万人の人工透析者の最大の屈託はいっ果てるともわからぬ漠たる不安の中にいることだ。私は今年2010年末には透析回数が2500回を超える。
「声が昔と全く変わっていない」「元気ですね」「若々しいですね」「自己管理が行き届いていますね」「無理な透析していませんよ」……友人 病院スタッフより称賛の言葉をよく貰う。これがなんともくすぐったい。自分としては特別な努力など何もしていないのだから。
私の普段は,食事は妻の手になるものを過不足なく完食する(誰でもがしていること),非透析日は4キロの散歩(これも多くの人が実行している。散歩歴16年),趣味としての読書(ほぼ月に10冊。図書館の利用者の多いこと),そしてその延長,あるいは関連として小説を書くこと(世にこの趣味を持つ人の何と多いことか)で過ぎている。透析,食事,散歩,読書,創作,いずれも平々凡々たる日常を積み重ねているだけに過ぎず,特筆すべき事柄は何もなく,周囲の皆さんに褒め称えられるようなことは何もしていない。
そんな中で私が特に楽しみとしているのは“創作”である。これまで明智光秀,濃姫について著してきたが,今,第3作目に挑戦,完成しつつある。主題は私が住む尾張藩7代藩主徳川宗春とその座を奪った8代将軍徳川吉宗との確執である。視点は地域偏重で?宗春を中心にしている。
吉宗は,テレビの影響でか,武の人としてイメージが定着しているようだが,実は徹底した法制主義者だ。幕府の赤字財政を立て直すためには質素倹約が最善の道筋だとして,あれもいかん,これもいかん,かんざし・くしの色,着物の裏地の色にまで統制が及んだ。吉宗が紀州藩主になったのは宝永2年(1705),22歳。父光貞の濫費により藩財政は大赤字の危機に瀕していた。吉宗は質素を宗とする星の下に生まれたようだ。江戸城に入っても4月〜9月は素足,素袷,一汁二菜,一日二食が日常の生活で,奇を衒った訳ではない。
気っ風の良い町人,有力商人にとっては息が詰まるような法の縛りであった。そこへ,「法は三条もあればよい。金のあるものが使ってこそ物が動く」という,性善説の宗春(藩主になったのは享保15年・35歳)が登場した。
尾張藩江戸藩邸で万五郎の初節句を祝って各種幟を80本近く揚げ(家康拝領の幟もあった),家重代の家宝の菖蒲兜などを華々しく飾り,江戸っ子を邸内に入れて見物させた。江戸町人の喜ぶまいことか。それに,地元名古屋へ藩主として初入府するや,それまで禁止されていた踊りの許可,歌舞音曲を許し,数十軒の歌舞伎・狂言の板張常設小屋の建設と藩士郎党,中間の見物自由,三遊郭(郊外に設立,市域の拡大)など,新政策を連発した。「京にも勝る賑わい。名古屋に生まれた幸せ」と町の人の賞賛を得た。名古屋の町起こしは成功し,人口は4割増加,三都(江戸,京,大坂)に次ぐ都へと成長させた。この華美が質素倹約政策の吉宗と対立しない筈がない。やがて追われる身となる。さてその後は……となるわけであるが,地元尾張名古屋の住人が想像と創造を絡ませながらの筆運びは実に楽しい。
もう一つ。高校時代から交友を続けている仲間がいる。名付けて「八駿会」。それが今年結成50周年を迎えたので,面々が活躍する『堀川捕物帳』(堀川は名古屋城築城の折,木曾の材木を運ぶため福島正則が開削した城下舟運の大動脈)を昨年12月に脱稿した。「俺はこんなキャラじゃない」と,あちこちからブーイングが出そうだが。
さらにもう一つ。大学時代の友人N君に「たまには方向転換して恋愛小説を書け。俺が添削をして原稿を真っ赤にしてやる」と言われて半年が経つ。妙な対抗心がわいてきて(彼は「自分は恋愛の達人,お前は恋愛音痴」と断じている),「ヨーシ,今年は恋愛小説に挑んでみよう」と思っている。
それにしてもこのような夢を追いかけていると,透析も友となるから不思議である。
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