有限会社 三九出版 - ニイタカヤマノボレ1208


















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                 ニイタカヤマノボレ1208
                         和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)

 人間誰しも,一生の方向を決定するような転機を経験していることと思う。私の長い研究生活の中にあって,この転機となったのが,これから紹介する1956年(昭和31年)の米国での国際会議出席だった。
 この話は1956年初め, 「本年6月にボストンで開催する国際音響学会に貴方を招待,研究を発表して欲しい,学会期間を含め2週間の滞在費を負担する」とのボルト会長(MIT)からの夢のような招待状に始まった。と言うのも,私は1950年より大学病院の外科医として前例の無い超音波診断の研究を始めて5年,日本の医学会では無視され,何とか物理系の音響学会で発表が許される状況だった。それが今回の国際音響学会からの招待に連なろうとは,今にして思えば,正に「捨てる神あれば,拾う神あり」だった。何はともあれ,この招待状を持って米国大使館を訪問すると,大使館員は「これは大変なもので,貴方は今年初めてです」と大変喜んでくれた。またこの招待状は日米政府間の交換教授協定によるもので,これは米国が敗戦国日本の復興を援助するための研究者派遣が目的で,滞在費は日本側が負担し,高額の旅費は米国が負担するものである。従って今回のような米国が逆に貴方のような日本の研究者を招請することは非常に珍しいとのことだった。米国訪問の旅費については,日本政府が何とかする筈と言われ,勇んで文部省を訪ねた。しかし文部省でも外務省でも門前払いのような対応で, 頼みとする私の大学でも, 一介の助手では問題にされなかった。一方,当時,米国への航空路が開始されていたが,往復の航空運賃は約10万円で,これは当時助手の私の月給4千円からすると2年分の年俸に匹敵するという天文学的なものだった。しかしどうしてもこの国際会議に出席したいとの思いが強く,研究仲間の医局員と一緒に色々考えた。この中で,当時無給医局員の外航貨物船の船医のアルバイトがあったので,これを利用して渡米してはとの奇想天外な案があった。この計画について色々の可能性を検討した結果,ある海運会社の貨物船で丁度この国際学会の頃,ニューヨークに着く便があることが分かり,無理に頼んで船医として乗船出来ることになった。しかしこれとて国際学会に間に合うという確証が全く無かったので,この旨ボルト会長に招待の受諾とともに発表演題と抄録を送付の上,5月初め勇躍横浜港を出航したのだった。
 1万トン級の大型貨物船の船医のアルバイトをしながら,生まれて初めての米国に向けての航海が始まった。本船が北太平洋を航行していたある日,船長に呼ばれてブリッジに行くと,「昭和16年12月2日,帝国海軍連合艦隊南雲機動部隊が―ニイタカヤマノボレ1208(下記〔注〕参照)―の暗号電報を受け,この地点で一斉に南方に回頭,一路真珠湾攻撃を目指したのであった」との説明を受けた。この話に開戦当時の興奮を思い出しながら,今回の航海の重大な目的に思いを馳せていた。その後,太平洋を越えロングビーチ港に寄港,さらにパナマ運河渡航を経験,横浜出航以来45日後にニューヨーク港に到着した時は,涙に自由の女神像が霞むほどの感激だった。次いで特急列車でボストンに向かい,国際学会の開会式に間に合ったことは,正に奇跡と言う以外に無かった。ボルト会長の心からの歓迎を受け夢心地だったが,大難去ってまた一難。それは,私は船員手帳のみでパスポートを持っていなかったので,これが大問題となった。ボルト会長の親切な配慮により,急遽ワシントンより係官が会場に駆けつけ,学会期間中の米国滞在が許可されるというハプニングもあった。またこの国際学会に日本の若い研究者が唯一人船医として出席,しかも「超音波による癌診断」発表というニュースのため,合同新聞記者会見が行われるなど,一躍国際学会の話題の人となった。本番の学会発表では,演題のトピック的な内容だったこともあり,大反響を呼び多くの質問が行われた。その中に「このような素晴らしい研究には,如何程の研究費を使ったのか」という質問があり,これに対し私は昭和30年初めて文部省科学研究費3万円支給されていたので,当時の1ドル360円から換算して「約80ドル」と答えたところ,すかさず「それは1日の研究費か」との質問には絶句するのみだった。また学術面以外にも,特急列車内の冷房,自動販売機などの米国の文化文明の驚くべき進歩は,帰国後医局で話しても,誰にも信じてもらえないほどだった。これはその後の日本経済の急速な高度成長を見る時, 今昔の感に堪えないものがある。同時にこの国際学会出席こそが,その後の私の一生を決める転機となったのだった。
  〔注〕ニイタカヤマ(新高山・3947メートル,現玉山)は戦前日本領土であった台湾の高山で,当時の日本の最高峰。1208は12月8日のことで,「12月8日戦闘開始(太平洋戦争)」の暗号であった。
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