有限会社 三九出版 - ――[還暦盛春駆ける夢]――   『ちょっと私小説風に夢を措く』


















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『ちょっと私小説風に夢を措く』

岩倉 憲男(神奈川県横浜市)


母が亡くなって,三度目の春が巡ってくる。母は,90歳の誕生日を目前に息を引き取った。私が60歳になり,33年の公務員生活を終わろうとしていた矢先だった。
母は,何年か前から癌を患っていた。大正生まれの女性として,戦争,引き揚げという苦難の日々と結核という病と闘いながら,そして,私の父との離婚を乗り越えて気丈に生きてきた。私の家族の戦後とは,父,母,姉,そして私の4人が離散したことだった。兄は,終戦の前年に幼くして亡くなり,父は,母との離婚の後,私が大学を卒業した翌年,病を得て58歳で他界している。父,そして母の思いはどうであったろうか。
私は,戦争の傷跡が残る四国の瀬戸内を望む港町の古い借家で生まれたが,父母,姉が次々に結核で倒れたため,小学3年生から高校を卒業するまで,近くに住む明治生まれの厳格な祖父母に育てられた。祖父母にとって,男の孫は私一人だったからか,体力づくりと勉強の生活を強いた。あの頃の夢とは,いや希望と言った方がいいかもしれないが,何だったんだろうかと思い起こすと,定かではない。ただひたすら「自分ひとりで何とか生きていこう」という歯軋(はぎしり)のような感覚が残っている。
昭和40年の春,大学生活が始まった。故郷から遠く離れた関東の大学にきてしまった。これが,第一の私の夢だったと患う。故郷から逃れ,やっと自由になる時間が持てる。小説が好きなだけ読める。大好きな映画を観ることが出来る。大人になっていく自分の姿が少しずつ見えきた。そして,生涯,友となる仲間たちとの出会いがキャンパスにあった。
4年が過ぎて,社会人としてのスタートは,余りにも安易すぎた。真剣に就職先を決めていなかった。田舎の祖父母は,私の帰りを心待ちしていたが,それに逆らった。その報いか,5年後に,転職の苦難を味わう羽目になった。この5年間は,母の弟が重役をしていた弱電部品を製造・販売する小さな会社であったが,厳しい労働環境に晒された。
27歳で転機が訪れた。考えてもいなかった市役所に入ることが出来た。その決断は,社会人となって,離れていた母と東京で暮らしていたが,「もうそろそろ,安心させて」の一言だった。第二の夢が,社会・経済の未曾有の繁栄と呼応して始まった。大都市の行政に携わる面白さと幹部職員を目指すという目標が,現実の夢となった。それらの夢を,生真面目に大学ノートに記した。北国の女性と職場結婚,子供が産まれ,難関の昇任試験を乗り越え,13回の異動を経験し,33年の月日が去った。
今年,63歳の元旦を迎えた。これからが「本当の夢を語れる」ことかとも思った。いまだ働いている身,その時間の大半を職場で費やしている。自由の身になるにはまだ少々時間がある。そこで,気にかけて実践しようとしていることがある。たわいの無いことだが,「何事も一度は体験してみる」ということだ。自分の目で確かめ,体で感じるということだ。永年の夢であった歌舞伎に嵌まっている。今年,取り壊される歌舞伎座の落ち着いた雰囲気と,役者の伝統芸(美)を理屈ぬきで堪能している。狂言も,初めて鑑賞することが出来た。大相撲にはまだ縁がないが,時間があれば落語会に行き,生の落語を楽しんでいる。人気歌手のコンサートにも行っている。
しかし自由の身になったときの私の,やらなければならない夢は,永年のコレクションである映画関係の整理である。大学時代からのスクラップブックが,215冊を数える。映画関係の書籍,映画のパンフレットが溢れている。小学1,2年生の時だが,港町の映画館(確か,喜楽館といったと思うが)の映写場に何時も入り込んで遊んでいた。切られたフイルム片を大事に持ち帰り,机の引き出しの奥にしまい込んだことを思い出す。あの「ニュー・シネマ・パラダイス」のトト少年と,同じだった。あの時からの宿題だったのだと,今思う。これは,叶えられる夢だと思う。
さらに本当の夢は,亡くなっている父,母,兄と,めっきり年を重ねてきた姉,そして私が,ちいさな卓祇台を囲んで思いの丈を語り合うことだ。それぞれが,その時,あの時,どんな思いであったのかを,私は聞きたい。私の家族とは,いったい何だったのだろうかと,思う。戦後の時代の混沌とした世情の中で生活していたということを。忍び寄る病の不気味さに怯えていたことを。何処にでもあった小さな家族が,お互いを支えていく強さが無かったのは,どうしてなのかと……。
叶えられる夢は,そんなに多くを望むことはないし,夢を定める努力をしなければいけないことかもしれない。ただ,私のこれからの夢は,決して叶えられない夢を携えて,今の私の家族と逞しく生きていくことだと思う。
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