『竜宮城の2年間で学んだこと』
藤澤 康裕(東京都町田市)
1.はじめに
2004年4月から2年間JICAのシニアボランティアとして生まれて初めて海外生活を体験した。出発前,海外渡航経験の乏しい私にとって2年間の海外生活は途方もなく長く,また未知なものに対する不安な気持ちで一杯であったが,活動を終えた今改めて感じることはこの2年間は私にとっては竜宮城での正夢であったということと還暦を過ぎたこの身にかけがえのない貴重な学びがあったと感じている。
私が行った竜宮城では,生まれつき貧乏育ちの私には初めて経済的にリッチな生活を謳歌できたこと,寒い冬の季節が無い環境で生活できたこと,自然災害の殆ど無い中で生活できたこと,そして何よりもかによりも多くの現地の人たちの素朴な幸せを求める姿を見つけ,僅かなりともそれに貢献できたこと,などが美しい思い出としていつまでも忘れられないものになっている。
2.海外生活の概要
JICA(独立行政法人国際協力機構)が主催しているシニア海外ボランティアの一員としてインドシナ半島の内陸国ラオスの首都ビエンチャンで活動を行った。活動拠点はラオス国立大学工学部の傘下組織としてLJTTC(Lao Japan Technical Training Center)でシステムエンジニアとしてPC教室の教官に新しい技術を習得させた。
生活はタイとの国境を流れるメコン川のほとりの借家に住んだ。500坪以上の広い土地に5ベッドルームの二階屋で,ここに24時間のフルガードを行うガードマン3人とお手伝いさん,それに70ドルで購入したドーベルマンが庭の中を自由に走り回っていた。この家で一番気に入っているのが仕事を終えて帰宅し,二階の広いベランダでビールを飲みながらメコンの流れとサンセットの美しさを眺める時であった。車は三菱パジェロを購入し,自分で運転した。ガードマンと借家の費用はJICAが負担してくれて,私はお手伝いさんに給料を100ドル(約1万円),食材購入費を100ドル渡せば1ケ月十分に食べることが出来た。この国のことを一言で表現すると昭和20年代後半の日本の社会状況と同じとよく言われている。
3.ラオスの好きなところ
(1)貧乏でも誇りを持っている
−近くの公園とか湖に行くと10人くらいの家族が楽しそうに食事をしているのを見かける。とても楽しそうで幸せそうな風景である。これを側で見ていると一緒に食べようと誘ってくれる。
こうなるともう昔からの友達同様である。ラープやパパイヤサラダなど食事も美味しい。近くでビールを買ってきて差し入れるともう宴会になってしまう。彼らは貧乏を苦にするよりもその時を楽しめれば幸せなのであろう。本当に羨ましいと思う。
(2)日本人が大好きな国民性
−日本が最大の支援国ということもあるが日本人が大好きである。理由は他の中国,韓凰 欧米人に比べて金持ちの人が多い,優しい,約束を守る,人を騙さない,など。朝のランニングで会う人に「お早う(サバイデイ)」と言うと必ず笑顔で両手を合わせて「サバイデイ」を返してくれる。
(3)物乞いが殆ど居ない
−タイやカンボジアの観光地に行くと売り子がどっと押しかけてきてしつこく物売りをする光景をよく目にするが,ラオスにはそのようなことは無い。国際的な観光地がない故とは思うが,この清々しさは何物にも代え難い。
(4)ストレスが溜まらない生活
−ラオス語に「ポーベニヤン」(どういたしまして)という言葉がある。この言葉で全ての罪が許される。まるで国民の殆どが聖書に出てくるイエスキリストのような許しの心を持っている。時間に遅れても,何かに失敗しても,約束を破っても「ゴメンナサイ」と言うとこの「ポーベニヤン」で全てが許されてしまう。
4.結び
ラオスの国民の殆どが日本人に比べると経済的に厳しい生活を送っている。だからといって不幸だとは思っていない。心から羨ましいと思う。時々使用人や周りの家のラオス人達が我が家の庭で何かを食べながら楽しそうに話している。そういう時には私もその輪の中に入り込む。ラオス語で話している中身は分からないが,たわいのない話であろう。私が一緒になると周りの家から更に人が集まり,楽しい団欒の一時(ひととき)になる。ラオスでは周りの人達がお互いに助け合い支え合って生活を楽しんでいるのだということが理解できる。私が子供のころ正にそのような向こう三軒両隣を含めた大家族のようであったことを思い出す。
幸せは決してお金だけでは得ることができない。人と人が信じ合い助け合う,その単純な生活の中にちゃんと備わっているのだということを改めて感じた次第である。
ラオスの経済発展の速度は著しい。私の切なる思いはこのまま国も人も変わらないで欲しい。何時までも私の竜宮城であって欲しいと願っている次第である。『感謝』
藤澤 康裕(東京都町田市)
1.はじめに
2004年4月から2年間JICAのシニアボランティアとして生まれて初めて海外生活を体験した。出発前,海外渡航経験の乏しい私にとって2年間の海外生活は途方もなく長く,また未知なものに対する不安な気持ちで一杯であったが,活動を終えた今改めて感じることはこの2年間は私にとっては竜宮城での正夢であったということと還暦を過ぎたこの身にかけがえのない貴重な学びがあったと感じている。
私が行った竜宮城では,生まれつき貧乏育ちの私には初めて経済的にリッチな生活を謳歌できたこと,寒い冬の季節が無い環境で生活できたこと,自然災害の殆ど無い中で生活できたこと,そして何よりもかによりも多くの現地の人たちの素朴な幸せを求める姿を見つけ,僅かなりともそれに貢献できたこと,などが美しい思い出としていつまでも忘れられないものになっている。
2.海外生活の概要
JICA(独立行政法人国際協力機構)が主催しているシニア海外ボランティアの一員としてインドシナ半島の内陸国ラオスの首都ビエンチャンで活動を行った。活動拠点はラオス国立大学工学部の傘下組織としてLJTTC(Lao Japan Technical Training Center)でシステムエンジニアとしてPC教室の教官に新しい技術を習得させた。
生活はタイとの国境を流れるメコン川のほとりの借家に住んだ。500坪以上の広い土地に5ベッドルームの二階屋で,ここに24時間のフルガードを行うガードマン3人とお手伝いさん,それに70ドルで購入したドーベルマンが庭の中を自由に走り回っていた。この家で一番気に入っているのが仕事を終えて帰宅し,二階の広いベランダでビールを飲みながらメコンの流れとサンセットの美しさを眺める時であった。車は三菱パジェロを購入し,自分で運転した。ガードマンと借家の費用はJICAが負担してくれて,私はお手伝いさんに給料を100ドル(約1万円),食材購入費を100ドル渡せば1ケ月十分に食べることが出来た。この国のことを一言で表現すると昭和20年代後半の日本の社会状況と同じとよく言われている。
3.ラオスの好きなところ
(1)貧乏でも誇りを持っている
−近くの公園とか湖に行くと10人くらいの家族が楽しそうに食事をしているのを見かける。とても楽しそうで幸せそうな風景である。これを側で見ていると一緒に食べようと誘ってくれる。
こうなるともう昔からの友達同様である。ラープやパパイヤサラダなど食事も美味しい。近くでビールを買ってきて差し入れるともう宴会になってしまう。彼らは貧乏を苦にするよりもその時を楽しめれば幸せなのであろう。本当に羨ましいと思う。
(2)日本人が大好きな国民性
−日本が最大の支援国ということもあるが日本人が大好きである。理由は他の中国,韓凰 欧米人に比べて金持ちの人が多い,優しい,約束を守る,人を騙さない,など。朝のランニングで会う人に「お早う(サバイデイ)」と言うと必ず笑顔で両手を合わせて「サバイデイ」を返してくれる。
(3)物乞いが殆ど居ない
−タイやカンボジアの観光地に行くと売り子がどっと押しかけてきてしつこく物売りをする光景をよく目にするが,ラオスにはそのようなことは無い。国際的な観光地がない故とは思うが,この清々しさは何物にも代え難い。
(4)ストレスが溜まらない生活
−ラオス語に「ポーベニヤン」(どういたしまして)という言葉がある。この言葉で全ての罪が許される。まるで国民の殆どが聖書に出てくるイエスキリストのような許しの心を持っている。時間に遅れても,何かに失敗しても,約束を破っても「ゴメンナサイ」と言うとこの「ポーベニヤン」で全てが許されてしまう。
4.結び
ラオスの国民の殆どが日本人に比べると経済的に厳しい生活を送っている。だからといって不幸だとは思っていない。心から羨ましいと思う。時々使用人や周りの家のラオス人達が我が家の庭で何かを食べながら楽しそうに話している。そういう時には私もその輪の中に入り込む。ラオス語で話している中身は分からないが,たわいのない話であろう。私が一緒になると周りの家から更に人が集まり,楽しい団欒の一時(ひととき)になる。ラオスでは周りの人達がお互いに助け合い支え合って生活を楽しんでいるのだということが理解できる。私が子供のころ正にそのような向こう三軒両隣を含めた大家族のようであったことを思い出す。
幸せは決してお金だけでは得ることができない。人と人が信じ合い助け合う,その単純な生活の中にちゃんと備わっているのだということを改めて感じた次第である。
ラオスの経済発展の速度は著しい。私の切なる思いはこのまま国も人も変わらないで欲しい。何時までも私の竜宮城であって欲しいと願っている次第である。『感謝』
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