有限会社 三九出版 - [隠居のたわごと]    夏目漱石と太宰治のユーモア


















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[隠居のたわごと]

                  夏目漱石と太宰治のユーモア
                         小櫃 蒼平(神奈川県相模原市)

 夏目漱石の『永日小品』のなかの「元旦」を読むたびに,きまって噴き出してしまう場面がある。高浜虚子が鼓を打ち,漱石が謡曲の「羽衣」を謡うところで,漱石が「出が好くなかったと後悔し」ながら謡いはじめると,いきなり虚子が大きな掛け声とともに鼓をかんと一つ打つ。漱石はその場面を「自分は虚子が斯う猛烈に来やうとは夢にも予期してゐなかった。……掛声は、まるで真剣勝負のそれのやうに自分の鼓膜を動かした。自分の謡は此掛声で二三度波を打った。それが漸く静まりかけた時に、虚子が又腹一杯に横合から威嚇した。自分の声は威嚇される度によろよろする。さうして小さくなる」と書いている。読むたびに,不機嫌そうな,しかしどこか楽しんでいるような漱石の顔と,「横合から威嚇」するように鼓を打つ虚子の姿をともに想像して,わらいが止まらなくなる。わたしはいつも元日の朝に〈読み初め〉と称してこの「元旦」を読む。そうすると一年が明るくはじまるような心地になる。
 仮に『吾輩は猫である』と『坊ちゃん』の作者,漱石をユーモアのひととして(簡単にはきめつけられないが),手元にある辞典をみると,ユーモアとは「火とを傷つけない上品なおかしみやしゃれ。知的なウィット、意志的な風刺に対して感情的なもの」(『日本国語大辞典』小学館),「言いたいことと、言っていることとの間にヒネリがあり、そのくい違いのおかしさが笑いを誘うことがある。そして、その笑いによってお互いの理解が深まる時、そのおかしさを〈ユーモア〉と言う」(新版哲学・論理用語辞典/思想の科学研究会)などとある。虚子の掛け声で狼狽する漱石に対するわらいは「感情的なもの」であり,「くい違いのおかしさ」に発する。そのまま素直に読んでも充分にわらえるが,〈癇癪もち〉だった漱石を知って読むと,そのくだりのおもしろさはさらに深まる。しかも漱石の癇癪には〈たくらみ〉がないのでさわやかである。それは『坊ちゃん』の主人公の性格設定をみても瞭らかで,それがわれわれの「感情的なもの」に訴えるので,共感をよぶことになる。もともと癇癪もちの人間は,どちらかといえば(短気といった欠点はあるが)正義漢で,几帳面で,涙もろい。そういう人間が過剰に行動したり,過剰に自己抑制したりすることで周囲の人間との間に温度差をうむ――それが「くい違いのおかしさ」である。漱石の場合は,正月気分にうかれて,虚子の鼓で謡うことを「好い加減に領承した」結果,癇癪を起こすのを懸命に堪える,いわば過剰な自己抑制が醸し出すところの「くい違いのおかしさ」である。そこには間違いなく漱石という実直な人間の姿がある。だから漱石のユーモアはかたちを変えると〈やさしさ〉に変わる。たとえば『坊ちゃん』では,主人公を小さいときからかわいがってくれた清という婆さんを登場させ,小説の最後をつぎのように締めくくる。「清の事を話すのを忘れて居た。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げた儘、清や帰つたよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰つて来て下さつたと涙をぽたぽたと落とした。おれも余り嬉しかつたからもう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云つた。(……)死ぬ前日おれを呼んで坊つちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんの御寺へ埋めて下さい。御墓のなかで坊つちゃんの来るのを楽しみに待つて居りますと云つた。だから清の墓は小日向の養源寺にある」(全集版/岩波書店)。
 太宰治のユーモアもすばらしいが,漱石のそれとは少し趣が違う。『道化の華』という小説がある。題名の「道化」という言葉は太宰理解の重要な鍵のひとつであるが,太宰の「道化」は生得のユーモアを伴って生彩を放つものである。というより,太宰にそなわったユーモアの才能が自虐的に,自己の暗い精神の側面を表現しようとして自覚的に演出されるのが「道化」であると考えたほうがいいようにおもう。たとえば小説『ロマネスク』のなかの一篇,「喧嘩次郎兵衛」の主人公は「喧嘩の上手になってやろうと決心」して懸命に修行した結果,願いかなって近隣にもはや敵うもののない喧嘩上手になるが,花嫁をもらった晩に,「おれは喧嘩が強いのだよ。喧嘩をするにはの、かうして右手で眉間を殴りさ、かうして左手で水落を殴るのだよ」と自慢したところ,「打ちどころがよかったので」花嫁がころりと死んでしまう,という話で,そこに書かれているのは〈修行〉の結果がおもわぬ悲劇を生んだという「くい違いのおかしさ」である。
 太宰のユーモアが素直に出ている作品を読みたいかたは『満願』という小説をごらんになるとよい。懇意の医者の家で,太宰とおもわれる主人公が,病いが癒えた夫との愛の営みを許された「若い奥様」がうれしそうに帰るのを目撃する、というだけの話であるが,わかるひとにはわかる上質のユーモアがそこにある。
 漱石の健康なユーモアに比べると,太宰のそれにはどこか暗い翳がある。「喧嘩次郎兵衛」は志をたて懸命に努力しながら,そのためにかえって挫折と蹉跌のかなしみを味わっている(「晩年」解説/奥野健夫/新潮文庫)。それは太宰の資質に深く根ざしたニヒリズムのせいかもしれない。夏目漱石と太宰治はユーモアの質においてときに対極にあるが,にもかかわらず,ともにその感覚は日本の小説家としては第一級である。


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