志賀直哉と奈良に住んだ人々
岡本 崇(京都府木津川市)
『岸本信夫スケッチ紀行』で「入江泰吉邸」が紹介された。そこを見た帰路,奈良市高畑の「志賀直哉邸」に寄り『志賀直哉旧居の復元』という本を買う。これがご縁で,首題の筆者,弦巻克二奈良女子大学教授の講演を拝聴。「高畑」と言えば,私の故郷,白銀村生まれの「平井由太郎」が昭和初期に建てた洋館を,私の母,谷村晶子が14才の頃,高取町から見学に行った。弦巻教授にそれを話すと下記の情報を頂く。
?志賀直哉の「日記」のS8年3月28日に,「平井老人死去,康子と寿々子を弔ひにやる」とある。平井の孫が,志賀の娘の寿々子と同級生でもあったのだろう。志賀直哉全集では,この「平井老人」が,未詳となっている。?S9年1月26日の日記に,「多田に平井の家の事訊いて貰うよう若山へ頼みに行く」とあり,?1月30日の日記に「平井の家を母の為に借りる話少しづゝ進む」とある。?2月8日の日記に,「平井の家先約の者借りる事になる。康子ひどく落胆」とあるとの事であった。
数日後,志賀邸の隣で「たかばたけ茶論」も経営する,中村一雄画伯から,子供の頃に洋館を見た記憶があると,地図を描いて頂く。現地を見ると,洋風レンガ塀の一部だけが残っていて,登記簿では,T15年〜S27年まで平井家の名義。志賀の義母がS9年9月から住んだ,中村楢次郎の貸家の真裏。彼の兄,中村雅真の曾孫の妻は,岡本崇のイトコの娘だ。志賀はこの中村一族とも家族ぐるみの交際をしたらしい。
平井は,天誅組が白銀岳頂上に本陣を置いた翌年の1864年に,本陣近くの白銀村夜中(西吉野町夜中)に生まれた。M22年8月,初代村長に就任し,7年間、村づくりに貢献。さらに奈良県議を経て,M36年衆議員に当選するも,翌年落選。それを機に,海外雄飛を志して渡米。ロスアンゼルスで植木園,病院を経営する。南カリフォルニア中央日本人会会長を務めた。S2年,64歳の時帰国。奈良市高畑に建てた洋館の家で,悠々自適の生活を送り,70歳で逝去。志賀に師事した池田小菊は,志賀の義母が,アメリカから届いたメロンを半分くれた,という趣旨の事を書いている。
因みに,日本のメロンの栽培は,カリフォルニアの露地栽培を手本としたが,終戦後まで中断されたとい言う事だから,平井が入手したメロンが小菊に届いたのであろう。
「吉野三山」の一つで「銀峯山」とも言われる白銀岳頂上の波宝神社は「有栖川宮」の祈願所。「安場」という地名を「夜中」と命名したのは神功皇后と伝わる。
この山麓の白銀尋常小学校に,「直木賞」の直木三十五が代用教員として来たのがM43年で19歳の時。直木が好意を持ったと言う4歳年下の美人,岡崎ユクエの家は下宿の近くで,夜中村の分村,西新子村の五代目岡本徳兵衛の二男・岡本政太郎の従弟の娘。直木は,M44年に上京して早大に入学。志賀は43年に東京帝大を27歳で退学。平井は,渡米中で,46歳の時であった。三代目岡本徳兵衛の二男・久治の子の岡田徳義は,M45年まで40年間,波宝神社祠官を勤めた。徳義の姉・レイが天誅組軍医の井澤宜庵の妻。徳義の妻の実家が,五條の櫻井晃二の本家。徳義の次女・オヒデは平井の弟・栄吉を養子に迎える。栄吉の長男・栄治の妻・ミル子は熊代家からだが,彼女が9歳の時,直木が担任。ミル子の母は,四代目岡本徳兵衛の二男・岡本栄次郎(和泉屋)の孫。吉田松陰が五條の森田節斎と出合った堤孝亭邸跡は,桜井誠文堂(櫻井晃二)所在地と吉野銀行跡地となる。吉野銀行は,六代目岡本徳永(儀三郎)が永田藤平達とM28年に設立した銀行で,徳永が取締役を務めていた。
山奥育ちの平井が,どうして25歳で村長,39歳で衆議員に上り詰めたのだろうか。平井が活躍する直前には,今村勤三(衆議員・天誅組の立役者今村文吾の甥)・中村雅真(貴族員・文吾と入魂)・村井善四郎(衆議員・岡本崇の曾祖母の弟)・西尾小左衛門(奈良県議・四代目徳兵衛の娘の子)・永田籐兵衛(奈良県議・天誅組の変の藤堂藩陣屋)がいる。「奈良県誕生物語」によれば,M6年の「大和国置県之建白書」に連署して活動した岡本家関係者は,徳永41歳,栄次郎65歳,政太郎24歳の時だった。
彼達は,天誅組主将・中山忠光卿の証文(九代目岡本崇が,「賀名生の里歴史民俗資料館」に寄託展示中)にある「倒幕の暁には褒章を取らせる」という文言と関係があったのだろうか。天誅組生き残りの平岡鳩平(北畠治房)はM29年男爵となり,T10年まで生存したので彼の支援はあり得る。徳永はM13年〜27年に,堺・大阪・奈良県議を歴任しているが,その後を受け平井は奈良県議。徳永の長男・岡本徳潤(平井の後,29年に村長)の妻・クマの弟・末吉雄治は,岩崎弥太郎の娘を娶っていたので,岩崎家(志賀の妻とも親戚)が支援したのだろうか。蜜柑を3貫目背負って駅まで3里半も歩いたと言う直木が,「20年の間に何う変わったか?」と回想した,平井由太郎の生まれた山里は,今,有名な「西吉野の柿」の産地として発展を続けている。
岡本 崇(京都府木津川市)
『岸本信夫スケッチ紀行』で「入江泰吉邸」が紹介された。そこを見た帰路,奈良市高畑の「志賀直哉邸」に寄り『志賀直哉旧居の復元』という本を買う。これがご縁で,首題の筆者,弦巻克二奈良女子大学教授の講演を拝聴。「高畑」と言えば,私の故郷,白銀村生まれの「平井由太郎」が昭和初期に建てた洋館を,私の母,谷村晶子が14才の頃,高取町から見学に行った。弦巻教授にそれを話すと下記の情報を頂く。
?志賀直哉の「日記」のS8年3月28日に,「平井老人死去,康子と寿々子を弔ひにやる」とある。平井の孫が,志賀の娘の寿々子と同級生でもあったのだろう。志賀直哉全集では,この「平井老人」が,未詳となっている。?S9年1月26日の日記に,「多田に平井の家の事訊いて貰うよう若山へ頼みに行く」とあり,?1月30日の日記に「平井の家を母の為に借りる話少しづゝ進む」とある。?2月8日の日記に,「平井の家先約の者借りる事になる。康子ひどく落胆」とあるとの事であった。
数日後,志賀邸の隣で「たかばたけ茶論」も経営する,中村一雄画伯から,子供の頃に洋館を見た記憶があると,地図を描いて頂く。現地を見ると,洋風レンガ塀の一部だけが残っていて,登記簿では,T15年〜S27年まで平井家の名義。志賀の義母がS9年9月から住んだ,中村楢次郎の貸家の真裏。彼の兄,中村雅真の曾孫の妻は,岡本崇のイトコの娘だ。志賀はこの中村一族とも家族ぐるみの交際をしたらしい。
平井は,天誅組が白銀岳頂上に本陣を置いた翌年の1864年に,本陣近くの白銀村夜中(西吉野町夜中)に生まれた。M22年8月,初代村長に就任し,7年間、村づくりに貢献。さらに奈良県議を経て,M36年衆議員に当選するも,翌年落選。それを機に,海外雄飛を志して渡米。ロスアンゼルスで植木園,病院を経営する。南カリフォルニア中央日本人会会長を務めた。S2年,64歳の時帰国。奈良市高畑に建てた洋館の家で,悠々自適の生活を送り,70歳で逝去。志賀に師事した池田小菊は,志賀の義母が,アメリカから届いたメロンを半分くれた,という趣旨の事を書いている。
因みに,日本のメロンの栽培は,カリフォルニアの露地栽培を手本としたが,終戦後まで中断されたとい言う事だから,平井が入手したメロンが小菊に届いたのであろう。
「吉野三山」の一つで「銀峯山」とも言われる白銀岳頂上の波宝神社は「有栖川宮」の祈願所。「安場」という地名を「夜中」と命名したのは神功皇后と伝わる。
この山麓の白銀尋常小学校に,「直木賞」の直木三十五が代用教員として来たのがM43年で19歳の時。直木が好意を持ったと言う4歳年下の美人,岡崎ユクエの家は下宿の近くで,夜中村の分村,西新子村の五代目岡本徳兵衛の二男・岡本政太郎の従弟の娘。直木は,M44年に上京して早大に入学。志賀は43年に東京帝大を27歳で退学。平井は,渡米中で,46歳の時であった。三代目岡本徳兵衛の二男・久治の子の岡田徳義は,M45年まで40年間,波宝神社祠官を勤めた。徳義の姉・レイが天誅組軍医の井澤宜庵の妻。徳義の妻の実家が,五條の櫻井晃二の本家。徳義の次女・オヒデは平井の弟・栄吉を養子に迎える。栄吉の長男・栄治の妻・ミル子は熊代家からだが,彼女が9歳の時,直木が担任。ミル子の母は,四代目岡本徳兵衛の二男・岡本栄次郎(和泉屋)の孫。吉田松陰が五條の森田節斎と出合った堤孝亭邸跡は,桜井誠文堂(櫻井晃二)所在地と吉野銀行跡地となる。吉野銀行は,六代目岡本徳永(儀三郎)が永田藤平達とM28年に設立した銀行で,徳永が取締役を務めていた。
山奥育ちの平井が,どうして25歳で村長,39歳で衆議員に上り詰めたのだろうか。平井が活躍する直前には,今村勤三(衆議員・天誅組の立役者今村文吾の甥)・中村雅真(貴族員・文吾と入魂)・村井善四郎(衆議員・岡本崇の曾祖母の弟)・西尾小左衛門(奈良県議・四代目徳兵衛の娘の子)・永田籐兵衛(奈良県議・天誅組の変の藤堂藩陣屋)がいる。「奈良県誕生物語」によれば,M6年の「大和国置県之建白書」に連署して活動した岡本家関係者は,徳永41歳,栄次郎65歳,政太郎24歳の時だった。
彼達は,天誅組主将・中山忠光卿の証文(九代目岡本崇が,「賀名生の里歴史民俗資料館」に寄託展示中)にある「倒幕の暁には褒章を取らせる」という文言と関係があったのだろうか。天誅組生き残りの平岡鳩平(北畠治房)はM29年男爵となり,T10年まで生存したので彼の支援はあり得る。徳永はM13年〜27年に,堺・大阪・奈良県議を歴任しているが,その後を受け平井は奈良県議。徳永の長男・岡本徳潤(平井の後,29年に村長)の妻・クマの弟・末吉雄治は,岩崎弥太郎の娘を娶っていたので,岩崎家(志賀の妻とも親戚)が支援したのだろうか。蜜柑を3貫目背負って駅まで3里半も歩いたと言う直木が,「20年の間に何う変わったか?」と回想した,平井由太郎の生まれた山里は,今,有名な「西吉野の柿」の産地として発展を続けている。
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