[隠居のたわごと]
夢の中の旅
小櫃 蒼平(神奈川県相模原市)
わたしはめったに夢を見ないが,それでも年に何度か夢を見る。夢は現実と交錯する ― 〈夢か現か〉といった状態である。というより,ほんとうは現実が夢に,夢が現実に姿を変えるといってもいいかもしれない。わたしはすでに目覚めているにもかかわらず,あえてその夢と現実の間に身をおいて,しばらくは夢の中の旅をする。
※
いやな夢を見た。わたしと友人がひとを捜している。友人というのは「メモ風旅日記・京都」に登場する,わたしを京都に送り出してくれた友人である。夢のなかの町には見覚えがなかった。わたしと友人は一軒の家に入り,斯く斯くしかじかの人間はいないか,と尋ねる。すると,その家の主らしき人物が,どこそこのなんとかという家にいる,という。具体的な名前をあげたような気もするが,覚えていない。それどころか,とつぜん場面が飛んで,わたしと友人の前に現れたのはわたしの母だった。母はしどけない格好をしていて(じっさいの母は質素だが,いつもきちんと身なりを整えていた),わたしを見知らぬ人間のように邪険にあしらった。吃驚したわたしが,〈おっかさん,どうしたの?〉というような言葉を叫んだところで,目が覚めた。いやな思いが残ったのは,しどけない格好の母の姿と荒寥とした町がどうにも無慚な印象として残ったからだ。ここでわたしがこだわるのは〈荒寥とした町〉である。「月天心貧しき町を通りけり」(蕪村)―― そんな町に出会うといかにも旅をしているという気になる。もちろんいつもそのような町を求めて旅をしているわけではない。明るい清潔な町も好きだ。ただわたしの性格が歪んでいるせいか,旅をしているという思いを深くするのは〈荒寥とした町〉に出合ったときだ。そのようなとき,ふと思い出して身に沁みるのは山頭火の句の数々である。例えば「この旅,果てもない旅のつくつくぼうし」「ふるさとは遠くして木の芽」など。そしてふたたびその町を旅立つときに「さて,どちらへ行かう風がふく」「秋風,行きたい方へ行けるところまで」(山頭火句集一・二/春陽堂)など。
※
夏目漱石に,夢を素材にした『夢十夜』(岩波文庫)という小説がある。例えばその「第三夜」の話は,主人公が盲目の子供を負って田の中の路を歩いていると,子供が「今に重くなるよ」とか「石が立ってるはずだがな」といい,ある森の中の杉の木のところに差しかかったとき,「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」という。すると,主人公に「一人の盲目を殺したという自覚が,忽然として頭の中に起こっ」て,「おれは人殺しであったんだなと始めて気が付いた途端に,背中の子が急に石地蔵のように重くなった」,という内容である。
文芸評論家江藤淳は,『漱石の「旧さ」と「新しさ」』(江藤淳著作集/講談社)で,「漱石の「坊ちゃん」は,―(略)―「近代化」によって喪われつつあるあの「共通の……基本的な前提(過去との連続性)」(哲学者ホワイトヘッドの言葉)の崩壊に対する不安から創り出された人物」で,そこに出てくる「(人間の)「型」は暗い陰影におおわれている」といい,そこで「時代への反撥から自己の省察へと視点を転換させ」ることで,「漱石の文学は必然的に新しくなって行った」と書いている。そして『それから』以後を「「共通の……基本的な前提」を喪失していく時代に生きる強いられた「個人」の運命を見究める道程」であったとしている。裏返せばそれは,近代日本の黎明期の知識人としての漱石が,西洋の新しい文化を求めながらも日本の過去の教養 ― 「基本的な前提」におびやかされていたということの証明でもある。そう考えると,「背中の子」は瞭らかに漱石の無意識の〈原罪〉,旧時代の〈しがらみ〉の形象化と読むことが可能である。
旅先の寂しい「森の中の道」を歩いているときに,わたしも「背中の子」を意識する瞬間がある。そんなとき〈ああ,旅をしているな〉と思う。その風景は間違いなく荒寥としていて,忘れていたわたしの「基本的な前提」が呼び覚まされるのだ。
※
芥川龍之介の『歯車』(芥川龍之介全集/岩波書店)の「レエン・コート」という章の主人公である「僕」は,知り合いの結婚披露式に出る自動車の中で,同乗者から,ある場所にレエン・コートを着た幽霊が出るという話を聞く。その後,停車場の待合室のベンチ,乗り込んだ省線電車の車中,ホテルのロビーの長椅子など,「僕」は行く先ざきでレエン・コートをまとった人物に遭遇する。しかもその間,「僕」は「視野を塞ぐ」歯車を見,頭痛に襲われ,給仕たちの「オオル・ライト」という言葉に神経を刺激される。小説は,ホテルの自室で「僕」が姉の夫の轢死を知らされ,その夫もまたレエン・コートを着ていたというオチで終わる。ほとんど神経病者の手記のような小説である。しかも芥川はこの作品を発表したほぼ一か月後に自死している。この小説を〈夢〉というにはいささか抵抗があるが,旅ではこれに似た経験をすることがよくある。例えば,京都のどこかの街角で見た顔を仙台で見るといった経験である。もちろん同一人物ではない。これを一種の白昼夢とみれば,これもまた〈夢〉のひとつであろうか。
夢の中の旅
小櫃 蒼平(神奈川県相模原市)
わたしはめったに夢を見ないが,それでも年に何度か夢を見る。夢は現実と交錯する ― 〈夢か現か〉といった状態である。というより,ほんとうは現実が夢に,夢が現実に姿を変えるといってもいいかもしれない。わたしはすでに目覚めているにもかかわらず,あえてその夢と現実の間に身をおいて,しばらくは夢の中の旅をする。
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いやな夢を見た。わたしと友人がひとを捜している。友人というのは「メモ風旅日記・京都」に登場する,わたしを京都に送り出してくれた友人である。夢のなかの町には見覚えがなかった。わたしと友人は一軒の家に入り,斯く斯くしかじかの人間はいないか,と尋ねる。すると,その家の主らしき人物が,どこそこのなんとかという家にいる,という。具体的な名前をあげたような気もするが,覚えていない。それどころか,とつぜん場面が飛んで,わたしと友人の前に現れたのはわたしの母だった。母はしどけない格好をしていて(じっさいの母は質素だが,いつもきちんと身なりを整えていた),わたしを見知らぬ人間のように邪険にあしらった。吃驚したわたしが,〈おっかさん,どうしたの?〉というような言葉を叫んだところで,目が覚めた。いやな思いが残ったのは,しどけない格好の母の姿と荒寥とした町がどうにも無慚な印象として残ったからだ。ここでわたしがこだわるのは〈荒寥とした町〉である。「月天心貧しき町を通りけり」(蕪村)―― そんな町に出会うといかにも旅をしているという気になる。もちろんいつもそのような町を求めて旅をしているわけではない。明るい清潔な町も好きだ。ただわたしの性格が歪んでいるせいか,旅をしているという思いを深くするのは〈荒寥とした町〉に出合ったときだ。そのようなとき,ふと思い出して身に沁みるのは山頭火の句の数々である。例えば「この旅,果てもない旅のつくつくぼうし」「ふるさとは遠くして木の芽」など。そしてふたたびその町を旅立つときに「さて,どちらへ行かう風がふく」「秋風,行きたい方へ行けるところまで」(山頭火句集一・二/春陽堂)など。
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夏目漱石に,夢を素材にした『夢十夜』(岩波文庫)という小説がある。例えばその「第三夜」の話は,主人公が盲目の子供を負って田の中の路を歩いていると,子供が「今に重くなるよ」とか「石が立ってるはずだがな」といい,ある森の中の杉の木のところに差しかかったとき,「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」という。すると,主人公に「一人の盲目を殺したという自覚が,忽然として頭の中に起こっ」て,「おれは人殺しであったんだなと始めて気が付いた途端に,背中の子が急に石地蔵のように重くなった」,という内容である。
文芸評論家江藤淳は,『漱石の「旧さ」と「新しさ」』(江藤淳著作集/講談社)で,「漱石の「坊ちゃん」は,―(略)―「近代化」によって喪われつつあるあの「共通の……基本的な前提(過去との連続性)」(哲学者ホワイトヘッドの言葉)の崩壊に対する不安から創り出された人物」で,そこに出てくる「(人間の)「型」は暗い陰影におおわれている」といい,そこで「時代への反撥から自己の省察へと視点を転換させ」ることで,「漱石の文学は必然的に新しくなって行った」と書いている。そして『それから』以後を「「共通の……基本的な前提」を喪失していく時代に生きる強いられた「個人」の運命を見究める道程」であったとしている。裏返せばそれは,近代日本の黎明期の知識人としての漱石が,西洋の新しい文化を求めながらも日本の過去の教養 ― 「基本的な前提」におびやかされていたということの証明でもある。そう考えると,「背中の子」は瞭らかに漱石の無意識の〈原罪〉,旧時代の〈しがらみ〉の形象化と読むことが可能である。
旅先の寂しい「森の中の道」を歩いているときに,わたしも「背中の子」を意識する瞬間がある。そんなとき〈ああ,旅をしているな〉と思う。その風景は間違いなく荒寥としていて,忘れていたわたしの「基本的な前提」が呼び覚まされるのだ。
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芥川龍之介の『歯車』(芥川龍之介全集/岩波書店)の「レエン・コート」という章の主人公である「僕」は,知り合いの結婚披露式に出る自動車の中で,同乗者から,ある場所にレエン・コートを着た幽霊が出るという話を聞く。その後,停車場の待合室のベンチ,乗り込んだ省線電車の車中,ホテルのロビーの長椅子など,「僕」は行く先ざきでレエン・コートをまとった人物に遭遇する。しかもその間,「僕」は「視野を塞ぐ」歯車を見,頭痛に襲われ,給仕たちの「オオル・ライト」という言葉に神経を刺激される。小説は,ホテルの自室で「僕」が姉の夫の轢死を知らされ,その夫もまたレエン・コートを着ていたというオチで終わる。ほとんど神経病者の手記のような小説である。しかも芥川はこの作品を発表したほぼ一か月後に自死している。この小説を〈夢〉というにはいささか抵抗があるが,旅ではこれに似た経験をすることがよくある。例えば,京都のどこかの街角で見た顔を仙台で見るといった経験である。もちろん同一人物ではない。これを一種の白昼夢とみれば,これもまた〈夢〉のひとつであろうか。
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