miniミニJIBUNSHI
アジアと私――アジア超音波医学連合への道――
和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)
外交などには全くの素人の一外科医が「アジアと私」の如き大袈裟なテーマを選んだのは,副題の「アジア超音波医学連合」の結成に中国,台湾,韓国を含めアジア諸国の仲間と力を合わせて成功した物語を紹介しようと思ったためである。実は今回の東日本大震災直後にアジア諸国の友人から多数の安否を尋ねる親切なメールや電話をもらったのには驚き,しかも彼等はこの「アジア連合」結成に一緒に苦労した仲間だったことから,35年前の感激的出来事を思い出しながら本文を書くことにした。
この超音波診断法(エコー検査法)の研究は,戦後間もない1950年(昭和25年)頃から当時大学医学部外科の一介の助手だった私と数名の欧米の学者によりほぼ同時に研究が始められた。しかし欧米の学者はその困難性から数年にして研究を放棄したのに対し,私は諦めずに研究を続けた結果,その実用化も期待されるまでになったのだった。同時にこの超音波診断法研究が広まるにつれ,国内の日本超音波医学会の結成に続き世界的研究組織の結成が望まれるようになり,1976年「世界超音波医学連合」が成立,その結成大会が米国サンフランシスコで開催された。その総会で定款に基づき世界先進国推薦の4名の候補者につき各国代表の投票による会長選挙が行われ,思いがけず私が初代世界連合会長に推挙されるという事態になった。
この新世界連合会長の私にとって3年後の日本での第1回世界大会開催準備という重大任務と同時に,念願の「アジア超音波医学連合」設立の夢の実現を試みたのだった。この「アジア超音波医学連合」結成の構想は,私が1960年代何度かアジア各国の大学での招待講演などを通じ,アジアに対し親しみと関心を持っていたことによるものだった。しかし,この設立大会の期間中に何人かのアジア代表とこの問題について話し合った途端に,アジア諸国の日本に対する強烈な不信感に遭遇するという予想外の大きな障害に直面することになった。この原因は戦後の日本が経済の高度成長のため欧米のみに目を向け世界有数の経済大国に成長したが,一方多大な損害を与えたアジアに目を向けることを疎かにした結果であり,また私が若くして世界連合会長就任という多少の驕りも手伝い,アジア連合は私が提案すれば,その結成は容易なことと考えたことによる誤算だった。アジア諸国の代表は,私のアジア超音波連合結成に関する提案に対し,基本的には賛同を示しながらも,日本が主導権を握ることに極度の不信感を抱き,この私の動きを欧米諸国に訴え出るということまで起きた。この結果,旧知の欧米の研究者からアジア連合結成における日本の主導的運動に対する強烈な牽制を受けるという事態にまで発展した。しかし,私はこのアジア連合は何としてもアジアの研究仲間の手で結成すべきであるとの信念の下,挫折しそうになりながらも計画の推進に必死の努力を続けた。すなわち1979年,私が会長としての第1回世界超音波医学連合日本大会の折や,その他多くの欧米における国際会議の場を利用してアジア代表との何度かの話し合いを持った結果,日本の戦時中の侵略行為等に関して本音で語り合うまでになったのは幸いだった。またアジア各国とくに中国における政治行政上の極めて困難な問題をも何とか乗り越えて,1987年,中国,韓国,マレーシア,インドネシア,インド,日本の6ヶ国の加盟によるアジア超音波医学学術連合を結成。同年第1回大会を私が初代会長として東京で盛大に開催することに成功したのであった。ここに至るまで計画着手より私の経験不足のため10年という長い年月を要したことになったが,アジアの代表の皆さんも自分達の手で成し遂げたことに対し,手を取り合って喜んでいたのを見て本当に良かったと思った。これらの仲間が今回の大震災に際し,我がことの如く心配してメールをくれたのだった。またこの大会には欧米の代表者を招待したので,彼らもアジア連合の成立に祝意を表しながらも,日本主導の下でのアジア諸国の団結という事実に,少なからざる脅威を感じていたことも事実だった。このアジア超音波医学連合はその後,台湾の加盟を巡っての中国との極めて困難な折衝を克服するなど着々と発展を遂げ,加盟国も12ヶ国と増加、3年毎の大会は加盟アジア各国において盛大に開催されている。
以上,「アジアと私」について簡単に紹介したが,これらの経過を通じてアジア諸国民が自分の国の歴史や文化に対して強烈な誇りを持っていることには教えられることが多かった。また近年グローバル化が叫ばれるようになってきたが,私の如き古い世代の不器用な日本人にとっては,日本式態度で仕事を進める以外になかっただけのことだった。しかし,「謙虚,謙譲,気配り」などを大切にする日本式やり方は,国際的には効率が悪く,時間も掛かり,時には損をすることもあったが,最後にはこの日本人的やり方は国際的にも通用することに自信を持つにいたった次第である。
アジアと私――アジア超音波医学連合への道――
和賀井 敏夫(神奈川県川崎市)
外交などには全くの素人の一外科医が「アジアと私」の如き大袈裟なテーマを選んだのは,副題の「アジア超音波医学連合」の結成に中国,台湾,韓国を含めアジア諸国の仲間と力を合わせて成功した物語を紹介しようと思ったためである。実は今回の東日本大震災直後にアジア諸国の友人から多数の安否を尋ねる親切なメールや電話をもらったのには驚き,しかも彼等はこの「アジア連合」結成に一緒に苦労した仲間だったことから,35年前の感激的出来事を思い出しながら本文を書くことにした。
この超音波診断法(エコー検査法)の研究は,戦後間もない1950年(昭和25年)頃から当時大学医学部外科の一介の助手だった私と数名の欧米の学者によりほぼ同時に研究が始められた。しかし欧米の学者はその困難性から数年にして研究を放棄したのに対し,私は諦めずに研究を続けた結果,その実用化も期待されるまでになったのだった。同時にこの超音波診断法研究が広まるにつれ,国内の日本超音波医学会の結成に続き世界的研究組織の結成が望まれるようになり,1976年「世界超音波医学連合」が成立,その結成大会が米国サンフランシスコで開催された。その総会で定款に基づき世界先進国推薦の4名の候補者につき各国代表の投票による会長選挙が行われ,思いがけず私が初代世界連合会長に推挙されるという事態になった。
この新世界連合会長の私にとって3年後の日本での第1回世界大会開催準備という重大任務と同時に,念願の「アジア超音波医学連合」設立の夢の実現を試みたのだった。この「アジア超音波医学連合」結成の構想は,私が1960年代何度かアジア各国の大学での招待講演などを通じ,アジアに対し親しみと関心を持っていたことによるものだった。しかし,この設立大会の期間中に何人かのアジア代表とこの問題について話し合った途端に,アジア諸国の日本に対する強烈な不信感に遭遇するという予想外の大きな障害に直面することになった。この原因は戦後の日本が経済の高度成長のため欧米のみに目を向け世界有数の経済大国に成長したが,一方多大な損害を与えたアジアに目を向けることを疎かにした結果であり,また私が若くして世界連合会長就任という多少の驕りも手伝い,アジア連合は私が提案すれば,その結成は容易なことと考えたことによる誤算だった。アジア諸国の代表は,私のアジア超音波連合結成に関する提案に対し,基本的には賛同を示しながらも,日本が主導権を握ることに極度の不信感を抱き,この私の動きを欧米諸国に訴え出るということまで起きた。この結果,旧知の欧米の研究者からアジア連合結成における日本の主導的運動に対する強烈な牽制を受けるという事態にまで発展した。しかし,私はこのアジア連合は何としてもアジアの研究仲間の手で結成すべきであるとの信念の下,挫折しそうになりながらも計画の推進に必死の努力を続けた。すなわち1979年,私が会長としての第1回世界超音波医学連合日本大会の折や,その他多くの欧米における国際会議の場を利用してアジア代表との何度かの話し合いを持った結果,日本の戦時中の侵略行為等に関して本音で語り合うまでになったのは幸いだった。またアジア各国とくに中国における政治行政上の極めて困難な問題をも何とか乗り越えて,1987年,中国,韓国,マレーシア,インドネシア,インド,日本の6ヶ国の加盟によるアジア超音波医学学術連合を結成。同年第1回大会を私が初代会長として東京で盛大に開催することに成功したのであった。ここに至るまで計画着手より私の経験不足のため10年という長い年月を要したことになったが,アジアの代表の皆さんも自分達の手で成し遂げたことに対し,手を取り合って喜んでいたのを見て本当に良かったと思った。これらの仲間が今回の大震災に際し,我がことの如く心配してメールをくれたのだった。またこの大会には欧米の代表者を招待したので,彼らもアジア連合の成立に祝意を表しながらも,日本主導の下でのアジア諸国の団結という事実に,少なからざる脅威を感じていたことも事実だった。このアジア超音波医学連合はその後,台湾の加盟を巡っての中国との極めて困難な折衝を克服するなど着々と発展を遂げ,加盟国も12ヶ国と増加、3年毎の大会は加盟アジア各国において盛大に開催されている。
以上,「アジアと私」について簡単に紹介したが,これらの経過を通じてアジア諸国民が自分の国の歴史や文化に対して強烈な誇りを持っていることには教えられることが多かった。また近年グローバル化が叫ばれるようになってきたが,私の如き古い世代の不器用な日本人にとっては,日本式態度で仕事を進める以外になかっただけのことだった。しかし,「謙虚,謙譲,気配り」などを大切にする日本式やり方は,国際的には効率が悪く,時間も掛かり,時には損をすることもあったが,最後にはこの日本人的やり方は国際的にも通用することに自信を持つにいたった次第である。
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