☆特別企画☆――東日本大震災
大津波と原発事故
柴田 秀男(神奈川県川崎市)
浅間山を展望する山の一つである鼻曲山(群馬県)に登ったときのことです。二度上峠の駐車場に福島ナンバーの車がありました。その車の主はすでに出発したあとでしたが,車のナンバーに引かれた私は稜線付近の林に入る直前にその人に追いつき,話を聞く機会に恵まれることになりました。彼は,前日まで南相馬でガレキの撤去をしていましたが,ゴールデンウィークで南相馬にもボランティアが入るようになったので,気分転換に山登りに来たとのことでした。70歳過ぎの1000山登頂を目指しているという彼から聞いた震災の話を初めに紹介します。
彼の自宅は被害を免れましたが,津波が水路を遡ってすぐ近所まで迫ってきたといいます。「農地には塩分が入ったが,海側はもともと干拓地で数十年かけて塩を抜いて耕作できるようにしたのが,元に戻っただけだ。また地道にやればいい」と,何とも大胆な発言も。何か手伝えることはないかと伺うと,「最初は屋内や家の周囲の泥出しと片付け,側溝浚い,田のガレキ撤去,塩抜きなど,やることはずっと続いていく。それより一度見に来て,風評被害の現場を知ってもらうのが一番」とのことでした。下山後に彼から頂いた名刺には「鹿島ボランティア連絡協議会会長」とありました。南相馬市は南から小高区(原発20km圏内の避難区域)・原町区(20km〜30km圏の緊急時避難準備区域)・鹿島区(30km圏の外側)からなり,鹿島区は放射線量も低く,他の地区より復興には有利と思えますが,市内に原発の緊急避難区域を抱えることから受ける風評被害の大きさは計り知れないものがあるのでしょう。その後,6月中旬に友人と共に,8月下旬に一人で南相馬市を訪れました。その際に見聞したことを幾つか,次に紹介したいと思います。
★ 南相馬市内では津波の被害の有無にかかわらず,今年の田植えを取り止めました。まだ行方不明者がいる状況で田へ水を入れるのが憚られたからといいます。また,稲を育てても原発に近いので米が売れない不安もあります。(農家としては田があるからには稲を作りたいけれど,もともと米だけでは生活が成り立っていない現状もあるようです。)6月に見たときは海水に浸ったまま,あるいは塩分の影響で土が赤黒くひび割れていました。8月になっても海水がそのまま残っていたり,そうでない所は雑草が生い茂っている状態です。一方,北に隣接する相馬市の内陸では田植えが済み,稲が育っていました。
★ すでに6月で道路や田のガレキ撤去がかなり進んでいるように見えました。しかし,あちこちに流されてきた船がころがっています。それは船の撤去は持ち主が行うという法律があるため自費では出来ず,持ち主不明にして放置しているそうです。8月でもこの状況は変わっていません。
★ 原町区の海岸付近に松林と砂浜が続いていたという場所があります。前述の彼の知り合いで飯豊山の山岳ガイドの家族が住んでいたのは海から高さ8mほどの台地で,津波などの影響は無いと思われていました。しかし,それを越えて津波が襲い,家屋が流され親子3人が亡くなりました。松林もまばらとなり,砂浜も消えました。この近くには避難所に指定されたグラウンドがありますが,やはり津波の被害に遭ったそうです。
★ 鹿島区では7月末で一般のボランティア受付を終了しましたが,8月に入ってからも仮設住宅の緑のカーテン設置(市では2150戸すべてに設置を決定)や,個人宅のガレキ撤去の依頼がありましたが,作業が全く無い日もあります。原町区では津波で海水や泥を被った写真等流出物の整理が2つの縦覧会場で継続されているため,しばらくは人手を必要としています。
往きがけに少し早めに出て安達太良山へ登り,土湯温泉へ寄りましたが,土湯の旅館では客が激減したといいます。原発関係者で満員という沿岸地域のビジネスホテルを除いて,福島県内はどこも同じような傾向だそうです。現地で配られた“ボランティアの心得”に「情報収集,体調管理,食事や宿泊場所の確保,交通費の確保など,自己完結を」とか,被災者の立場に立った活動,地域住民の自立を支援,「興味本位・物見遊山は×。被災された方の気持ちを考え,写真撮影は禁止」などと細かく配慮された内容が書かれています。しかし,被災地がどんな様子かをしっかり自分の目で見ることは非常に大切であり,関心を持って取り組むべきでしょう。活動が終わり,往き帰りに余裕があれば近くの山にも登ってくる。被災地に限らず東北を訪れることが復興へつながるとも言われています。そのための物見遊山はどしどしすべきではないかと考える次第です。
大津波と原発事故
柴田 秀男(神奈川県川崎市)
浅間山を展望する山の一つである鼻曲山(群馬県)に登ったときのことです。二度上峠の駐車場に福島ナンバーの車がありました。その車の主はすでに出発したあとでしたが,車のナンバーに引かれた私は稜線付近の林に入る直前にその人に追いつき,話を聞く機会に恵まれることになりました。彼は,前日まで南相馬でガレキの撤去をしていましたが,ゴールデンウィークで南相馬にもボランティアが入るようになったので,気分転換に山登りに来たとのことでした。70歳過ぎの1000山登頂を目指しているという彼から聞いた震災の話を初めに紹介します。
彼の自宅は被害を免れましたが,津波が水路を遡ってすぐ近所まで迫ってきたといいます。「農地には塩分が入ったが,海側はもともと干拓地で数十年かけて塩を抜いて耕作できるようにしたのが,元に戻っただけだ。また地道にやればいい」と,何とも大胆な発言も。何か手伝えることはないかと伺うと,「最初は屋内や家の周囲の泥出しと片付け,側溝浚い,田のガレキ撤去,塩抜きなど,やることはずっと続いていく。それより一度見に来て,風評被害の現場を知ってもらうのが一番」とのことでした。下山後に彼から頂いた名刺には「鹿島ボランティア連絡協議会会長」とありました。南相馬市は南から小高区(原発20km圏内の避難区域)・原町区(20km〜30km圏の緊急時避難準備区域)・鹿島区(30km圏の外側)からなり,鹿島区は放射線量も低く,他の地区より復興には有利と思えますが,市内に原発の緊急避難区域を抱えることから受ける風評被害の大きさは計り知れないものがあるのでしょう。その後,6月中旬に友人と共に,8月下旬に一人で南相馬市を訪れました。その際に見聞したことを幾つか,次に紹介したいと思います。
★ 南相馬市内では津波の被害の有無にかかわらず,今年の田植えを取り止めました。まだ行方不明者がいる状況で田へ水を入れるのが憚られたからといいます。また,稲を育てても原発に近いので米が売れない不安もあります。(農家としては田があるからには稲を作りたいけれど,もともと米だけでは生活が成り立っていない現状もあるようです。)6月に見たときは海水に浸ったまま,あるいは塩分の影響で土が赤黒くひび割れていました。8月になっても海水がそのまま残っていたり,そうでない所は雑草が生い茂っている状態です。一方,北に隣接する相馬市の内陸では田植えが済み,稲が育っていました。
★ すでに6月で道路や田のガレキ撤去がかなり進んでいるように見えました。しかし,あちこちに流されてきた船がころがっています。それは船の撤去は持ち主が行うという法律があるため自費では出来ず,持ち主不明にして放置しているそうです。8月でもこの状況は変わっていません。
★ 原町区の海岸付近に松林と砂浜が続いていたという場所があります。前述の彼の知り合いで飯豊山の山岳ガイドの家族が住んでいたのは海から高さ8mほどの台地で,津波などの影響は無いと思われていました。しかし,それを越えて津波が襲い,家屋が流され親子3人が亡くなりました。松林もまばらとなり,砂浜も消えました。この近くには避難所に指定されたグラウンドがありますが,やはり津波の被害に遭ったそうです。
★ 鹿島区では7月末で一般のボランティア受付を終了しましたが,8月に入ってからも仮設住宅の緑のカーテン設置(市では2150戸すべてに設置を決定)や,個人宅のガレキ撤去の依頼がありましたが,作業が全く無い日もあります。原町区では津波で海水や泥を被った写真等流出物の整理が2つの縦覧会場で継続されているため,しばらくは人手を必要としています。
往きがけに少し早めに出て安達太良山へ登り,土湯温泉へ寄りましたが,土湯の旅館では客が激減したといいます。原発関係者で満員という沿岸地域のビジネスホテルを除いて,福島県内はどこも同じような傾向だそうです。現地で配られた“ボランティアの心得”に「情報収集,体調管理,食事や宿泊場所の確保,交通費の確保など,自己完結を」とか,被災者の立場に立った活動,地域住民の自立を支援,「興味本位・物見遊山は×。被災された方の気持ちを考え,写真撮影は禁止」などと細かく配慮された内容が書かれています。しかし,被災地がどんな様子かをしっかり自分の目で見ることは非常に大切であり,関心を持って取り組むべきでしょう。活動が終わり,往き帰りに余裕があれば近くの山にも登ってくる。被災地に限らず東北を訪れることが復興へつながるとも言われています。そのための物見遊山はどしどしすべきではないかと考える次第です。
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