☆特別企画☆――東日本大震災
地震と食料と医療と
佐藤 芳博(宮城県多賀城市)
私は,仙台市内で最初の新興住宅地とも言われていた現在の若林区文化町で生まれた。小学生の頃は近所に“いぐね”があり,稲,野菜,果樹が生育する様子を毎日見て育った。地震発生直後,東京世田谷の自室でNHKヘリコプターからの映像を見て絶句した。大津波が押し寄せている場所は,かつて自動車で度々訪れた場所だった。画面では波の速さがゆっくり見えるが,私の土地勘からして,かなり速いなと思った。
仙台藩祖伊達政宗公は,先祖伝来の土地から,更に北へ領地替えになった。それ以来,仙台平野を豊かな実りをもたらす大地にし,それを営々と守り続けてきた地域が多い。そこに大津波が押し寄せ,ヘドロと塩分が残され,農業用排水路の修復が間に合わず,今年は稲作を諦めなければならない地域も少なくなかった。仙台湾の沿岸地域ではアユの稚魚が,津波が引いた後に残され肥料となっている耕作地もある。除塩すれば豊かな大地に戻る所もあれば,ヘドロの除去に苦労している耕作地もある。
大震災後,宮城県が水産県なのを強く認識するようになった。江戸時代には俵物と言われる海産物が生産され,江戸で消費される領内産出米と共に仙台藩の財政を潤した。その代表的なものが,フカヒレ,干しアワビで,高級中国料理の食材の長崎俵物として清(中国)に輸出されていた。それらの生産地として代々受け継がれてきた海沿いの地域は,大津波で壊滅的状況となり,集落全体が消えた場所もある。
被害の様子が幾度となく報道されている,旧矢本町,(現東松島市),旧北上町(現石巻市)は伊達家に代々仕え,大坂城落城の折,真田幸村の娘達を助けた片倉家の白石地域からの第一次分村,第二次分村だ。江戸時代に開田し,それ以来,代々が農業と漁業に従事し,片倉家の財政を支えた。その地域のかなりの部分が大津波の甚大な被害を受けた。開拓以来,何度も津波の被害を受けながら蘇ってきた地域だ。
これらの地域には,今でも私の親戚縁者が多く,家ごと津波に流され帰らぬ人となった老夫婦もいる。北上町吉浜在住の88歳の親戚の女性は,近所の人に助けられ車で避難中に津波に流された。車が岩にぶつかり,歩けないのでその場所に留まっていたそうだ。見知らぬ青年が避難所に運び込み,九死に一生を得た。娘夫婦が車で入れる場所まで行き,そこからは徒歩で,必死になって母親を探し当て,仙台に連れてきたそうだ。自宅は津波に浸ったが,改修し住めるようになった。しかし,妹夫婦や近所の人々の大半が亡くなり生活環境が一変し,集落として維持できるか不安とのことだ。助かったのだから懸命に生きなければと語り,亡くなられた人々の慰霊をしている。
曽祖父の弟の子孫は,一直線に北上町橋浦から大須女川に逃げて助かったが,北上川から溢れた津波で,自動車が水に浸かり,家も床上浸水したとのことだ。ここは大津波が寄せて多くの児童と教職員が犠牲となった石巻市立大川小学校の対岸だ。北上川改修で出来た橋浦字大須の集落はかつての川床で,本籍地の古名は川底何番地と言われていたとのことだ。橋浦字上大須の愛宕神社にはその時の事蹟を記した碑がある。
大川小学校の傍で河口から4km程の,北上川に架かる新北上大橋は,全長約570mの内,北上町橋浦側の左岸訳150mの間の橋脚が津波で流された。石巻市北上町と対岸の大川,雄勝地区を結んでいた新北上大橋の一部流出は,地域住民の生活を直撃した。親戚縁者が多く,職場がある対岸に向かうのには,上流12kmの飯野川橋を迂回しなければならない。現在,宮城県は仮橋の建設を進め,年内開通を目指している。対岸の旧雄勝町は,硯と天然スレートの産地として有名だ。東京駅の復元工事に使われることになっていたスレートも津波を被った。損傷を免れたスレートは,宮城県登米産のスレートと共に,東京駅の屋根材として使われることになった。
雄勝地区には,市民の医療を長年支えてきた石巻市立雄勝病院がある。大津波は,入院患者40人全員と多くの医療スタッフをのみこんだ。裏山の高台に逃げて難を逃れたのは,事務職員ら6人だけだった。狩野研次郎院長ら死亡者が多数出た。狩野院長は,入院患者を見舞いに来た方々や医療スタッフと共に流れてきた小型漁船に乗り移ったとのことだ。その後,大きめの漁船が流れ着いてきたので,他の全員を先に乗り移らせ,自分は乗り移れなかったようだ。その後,小型漁船内で凍死しているのを発見され,医学部同期の医師によって情報を確認されたと聞いている。狩野院長は,仙台二高3年の同級生で,高校同期のメール連絡網でその事実を知った。自分は死の危険性を伴う小型漁船に最後まで残り,見舞い客と医療スタッフを先に救け,遂に乗り移れなかった狩野さんが,瞬間的に勇気ある決断をされたことに深甚なる敬意を表し哀悼の誠を捧げる。私は,自分自身がそのような事態に直面した際に,同様の決断をすることが出来るような人生を過ごしてこなかったことを恥じ入る日々だ。合掌。
地震と食料と医療と
佐藤 芳博(宮城県多賀城市)
私は,仙台市内で最初の新興住宅地とも言われていた現在の若林区文化町で生まれた。小学生の頃は近所に“いぐね”があり,稲,野菜,果樹が生育する様子を毎日見て育った。地震発生直後,東京世田谷の自室でNHKヘリコプターからの映像を見て絶句した。大津波が押し寄せている場所は,かつて自動車で度々訪れた場所だった。画面では波の速さがゆっくり見えるが,私の土地勘からして,かなり速いなと思った。
仙台藩祖伊達政宗公は,先祖伝来の土地から,更に北へ領地替えになった。それ以来,仙台平野を豊かな実りをもたらす大地にし,それを営々と守り続けてきた地域が多い。そこに大津波が押し寄せ,ヘドロと塩分が残され,農業用排水路の修復が間に合わず,今年は稲作を諦めなければならない地域も少なくなかった。仙台湾の沿岸地域ではアユの稚魚が,津波が引いた後に残され肥料となっている耕作地もある。除塩すれば豊かな大地に戻る所もあれば,ヘドロの除去に苦労している耕作地もある。
大震災後,宮城県が水産県なのを強く認識するようになった。江戸時代には俵物と言われる海産物が生産され,江戸で消費される領内産出米と共に仙台藩の財政を潤した。その代表的なものが,フカヒレ,干しアワビで,高級中国料理の食材の長崎俵物として清(中国)に輸出されていた。それらの生産地として代々受け継がれてきた海沿いの地域は,大津波で壊滅的状況となり,集落全体が消えた場所もある。
被害の様子が幾度となく報道されている,旧矢本町,(現東松島市),旧北上町(現石巻市)は伊達家に代々仕え,大坂城落城の折,真田幸村の娘達を助けた片倉家の白石地域からの第一次分村,第二次分村だ。江戸時代に開田し,それ以来,代々が農業と漁業に従事し,片倉家の財政を支えた。その地域のかなりの部分が大津波の甚大な被害を受けた。開拓以来,何度も津波の被害を受けながら蘇ってきた地域だ。
これらの地域には,今でも私の親戚縁者が多く,家ごと津波に流され帰らぬ人となった老夫婦もいる。北上町吉浜在住の88歳の親戚の女性は,近所の人に助けられ車で避難中に津波に流された。車が岩にぶつかり,歩けないのでその場所に留まっていたそうだ。見知らぬ青年が避難所に運び込み,九死に一生を得た。娘夫婦が車で入れる場所まで行き,そこからは徒歩で,必死になって母親を探し当て,仙台に連れてきたそうだ。自宅は津波に浸ったが,改修し住めるようになった。しかし,妹夫婦や近所の人々の大半が亡くなり生活環境が一変し,集落として維持できるか不安とのことだ。助かったのだから懸命に生きなければと語り,亡くなられた人々の慰霊をしている。
曽祖父の弟の子孫は,一直線に北上町橋浦から大須女川に逃げて助かったが,北上川から溢れた津波で,自動車が水に浸かり,家も床上浸水したとのことだ。ここは大津波が寄せて多くの児童と教職員が犠牲となった石巻市立大川小学校の対岸だ。北上川改修で出来た橋浦字大須の集落はかつての川床で,本籍地の古名は川底何番地と言われていたとのことだ。橋浦字上大須の愛宕神社にはその時の事蹟を記した碑がある。
大川小学校の傍で河口から4km程の,北上川に架かる新北上大橋は,全長約570mの内,北上町橋浦側の左岸訳150mの間の橋脚が津波で流された。石巻市北上町と対岸の大川,雄勝地区を結んでいた新北上大橋の一部流出は,地域住民の生活を直撃した。親戚縁者が多く,職場がある対岸に向かうのには,上流12kmの飯野川橋を迂回しなければならない。現在,宮城県は仮橋の建設を進め,年内開通を目指している。対岸の旧雄勝町は,硯と天然スレートの産地として有名だ。東京駅の復元工事に使われることになっていたスレートも津波を被った。損傷を免れたスレートは,宮城県登米産のスレートと共に,東京駅の屋根材として使われることになった。
雄勝地区には,市民の医療を長年支えてきた石巻市立雄勝病院がある。大津波は,入院患者40人全員と多くの医療スタッフをのみこんだ。裏山の高台に逃げて難を逃れたのは,事務職員ら6人だけだった。狩野研次郎院長ら死亡者が多数出た。狩野院長は,入院患者を見舞いに来た方々や医療スタッフと共に流れてきた小型漁船に乗り移ったとのことだ。その後,大きめの漁船が流れ着いてきたので,他の全員を先に乗り移らせ,自分は乗り移れなかったようだ。その後,小型漁船内で凍死しているのを発見され,医学部同期の医師によって情報を確認されたと聞いている。狩野院長は,仙台二高3年の同級生で,高校同期のメール連絡網でその事実を知った。自分は死の危険性を伴う小型漁船に最後まで残り,見舞い客と医療スタッフを先に救け,遂に乗り移れなかった狩野さんが,瞬間的に勇気ある決断をされたことに深甚なる敬意を表し哀悼の誠を捧げる。私は,自分自身がそのような事態に直面した際に,同様の決断をすることが出来るような人生を過ごしてこなかったことを恥じ入る日々だ。合掌。
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