☆特別企画☆――東日本大震災
巨大津波と避難所暮らし
菊地 文武(宮城県山元町)
2011年3月11日,午後2時46分,突如,大きな突き上げとともに大地震が起きた。激震は続く。長い。そうこうしているうちに,大津波の危機に気づいた。避難先は我が家の西方,2.5キロメートルの丘陵上の役場広場。近所に住む次男一家の嫁さんと孫(14ヶ月)を車に乗せて役場に向かった。避難の車が続々やってきた。寒かったので公民館に入ろうとしたら「危険だから」と止められた。4時ごろ,「津波だ」の声に高台の端に行ってみると,“水”は里山の麓まで来ていた。海岸の辺りでは,黒松の海岸線は消えてしまい,木が点々と残るだけで,全体が海になっていた。
その日から避難所生活が始まった。まず,孫,嫁,妻を公民館隣の保健センターに入れてもらった。その後,自分の場所を探した。公民館などの諸施設は満杯で,寝るときは肩幅ぐらいの空間しかなかった。夜,おしっこに行って戻ったら,寝ていた場所がもっと狭くなっていた。眠れず,外に出た。空は満点の星。水溜りは凍っていた。焚き火に入れてもらって暖を取った。翌日,食事に並んだ。本当に小さなおにぎりとわずかばかりの味噌汁だった。与えられた割り箸は一本だけ。食べ終わったら置いてあるボールの“きれいではない水”ですすいで,ダンボール箱に戻した。その一本割り箸は,その後二日ぐらい使ったと思う。食中毒は起こらなかった。
このような状況でスタートした避難所暮らしだが,四日経ち,一週間経つうちに,おにぎりが大きくなってきた。おかずとパンやお菓子もついた。改善できないこともあった。トイレ問題である。断水が続いているので,もともと数の足りない仮設トイレの汚れはどうしようもなかった。極力我慢することになってしまう。飲む水の量も少なかったので,私のおしっこ回数は,一日4回ぐらいだったと思う。その代わり,小便の色は黄色を通り越してオレンジに近かった。
被災後五日ほど経って,立ち入り禁止ではあったが,家に行ってみた。居間には,ガラス戸を突き破った海岸林の松の木などが入り込み,ヘドロとゴミにまみれた家財や書籍類が散乱し,壁には,一階の天井近くまで,泥やゴミがついていた。床は,厚さ6,7センチのヘドロで覆われていて,田んぼに入っているような状態だった。敷地内には,流されてきた見知らぬ乗用車が4台も入り込み,他に,どこから流れてきたのか分からない物置・家具・戸・障子・住宅の柱・缶詰・ビール・醤油・布団・毛布……手の出しようも無かった。その日は,金銭・貴重品を持って避難所に戻った。混沌とした状態で何も考えられなかった。
避難所では,恐怖の中から運よく助かった話・握っていた親の手を離してしまい流れてしまったこと・海岸林にある老人介護施設や保育所・幼稚園で,多くの年寄りや子供,そしてそこで働いていた人たちも流れてしまったという地獄絵のような話……。遺体が見つかったと,或いは遺体を探しに,安置所に行く人たち(彼等は,悲しそうな表情も見せなかった)……。寝ているとき,飯を食べているとき以外は,このような乾燥した,泣くこともない光景の中で,家族や知り合いとの狭い行き来で,あらかたの時間が埋まっていたように思う。
自分を取り戻し,再出発や町の復旧復興などについて考え始めたのは,3月の末に友人たちが見舞いにきてくれ,自宅に行って泥水でずっしりと重い布団や畳,家に入り込んだ木材などの整理に取り掛かってくれてからだ。それがあったからこそ,ボランティアの支援を要請する気にもなれた。70歳になった今,彼らにはもうお返しはできない。ただ手を合わせることぐらいしかできないだろう。
公民館にいたのは一週間ぐらいで,その後,中学校の教室,小学校の体育館に移るなどした。その間,風邪と気管支炎で,(多分)抗生物質を処方してもらって悪化を防いだ。運よく仮設住宅に移れたのが6月1日だった。この頃,8回にわたって,ボランティアの支援を受けた。床下のヘドロのかき出しや,ガレキの始末などをお願いした。多くの人たちに支えられて復旧作業が始まった。しかし,我が家の所属する町内会21軒で,自分の家に留まるのは6軒だけ。ほとんどは修繕すれば住めるのに『家を取り壊してもらうことにした』という。事情はいろいろだが,自力で何とかできる人は少ない。胸の痛むケースが多い。
巨大津波と避難所暮らし
菊地 文武(宮城県山元町)
2011年3月11日,午後2時46分,突如,大きな突き上げとともに大地震が起きた。激震は続く。長い。そうこうしているうちに,大津波の危機に気づいた。避難先は我が家の西方,2.5キロメートルの丘陵上の役場広場。近所に住む次男一家の嫁さんと孫(14ヶ月)を車に乗せて役場に向かった。避難の車が続々やってきた。寒かったので公民館に入ろうとしたら「危険だから」と止められた。4時ごろ,「津波だ」の声に高台の端に行ってみると,“水”は里山の麓まで来ていた。海岸の辺りでは,黒松の海岸線は消えてしまい,木が点々と残るだけで,全体が海になっていた。
その日から避難所生活が始まった。まず,孫,嫁,妻を公民館隣の保健センターに入れてもらった。その後,自分の場所を探した。公民館などの諸施設は満杯で,寝るときは肩幅ぐらいの空間しかなかった。夜,おしっこに行って戻ったら,寝ていた場所がもっと狭くなっていた。眠れず,外に出た。空は満点の星。水溜りは凍っていた。焚き火に入れてもらって暖を取った。翌日,食事に並んだ。本当に小さなおにぎりとわずかばかりの味噌汁だった。与えられた割り箸は一本だけ。食べ終わったら置いてあるボールの“きれいではない水”ですすいで,ダンボール箱に戻した。その一本割り箸は,その後二日ぐらい使ったと思う。食中毒は起こらなかった。
このような状況でスタートした避難所暮らしだが,四日経ち,一週間経つうちに,おにぎりが大きくなってきた。おかずとパンやお菓子もついた。改善できないこともあった。トイレ問題である。断水が続いているので,もともと数の足りない仮設トイレの汚れはどうしようもなかった。極力我慢することになってしまう。飲む水の量も少なかったので,私のおしっこ回数は,一日4回ぐらいだったと思う。その代わり,小便の色は黄色を通り越してオレンジに近かった。
被災後五日ほど経って,立ち入り禁止ではあったが,家に行ってみた。居間には,ガラス戸を突き破った海岸林の松の木などが入り込み,ヘドロとゴミにまみれた家財や書籍類が散乱し,壁には,一階の天井近くまで,泥やゴミがついていた。床は,厚さ6,7センチのヘドロで覆われていて,田んぼに入っているような状態だった。敷地内には,流されてきた見知らぬ乗用車が4台も入り込み,他に,どこから流れてきたのか分からない物置・家具・戸・障子・住宅の柱・缶詰・ビール・醤油・布団・毛布……手の出しようも無かった。その日は,金銭・貴重品を持って避難所に戻った。混沌とした状態で何も考えられなかった。
避難所では,恐怖の中から運よく助かった話・握っていた親の手を離してしまい流れてしまったこと・海岸林にある老人介護施設や保育所・幼稚園で,多くの年寄りや子供,そしてそこで働いていた人たちも流れてしまったという地獄絵のような話……。遺体が見つかったと,或いは遺体を探しに,安置所に行く人たち(彼等は,悲しそうな表情も見せなかった)……。寝ているとき,飯を食べているとき以外は,このような乾燥した,泣くこともない光景の中で,家族や知り合いとの狭い行き来で,あらかたの時間が埋まっていたように思う。
自分を取り戻し,再出発や町の復旧復興などについて考え始めたのは,3月の末に友人たちが見舞いにきてくれ,自宅に行って泥水でずっしりと重い布団や畳,家に入り込んだ木材などの整理に取り掛かってくれてからだ。それがあったからこそ,ボランティアの支援を要請する気にもなれた。70歳になった今,彼らにはもうお返しはできない。ただ手を合わせることぐらいしかできないだろう。
公民館にいたのは一週間ぐらいで,その後,中学校の教室,小学校の体育館に移るなどした。その間,風邪と気管支炎で,(多分)抗生物質を処方してもらって悪化を防いだ。運よく仮設住宅に移れたのが6月1日だった。この頃,8回にわたって,ボランティアの支援を受けた。床下のヘドロのかき出しや,ガレキの始末などをお願いした。多くの人たちに支えられて復旧作業が始まった。しかし,我が家の所属する町内会21軒で,自分の家に留まるのは6軒だけ。ほとんどは修繕すれば住めるのに『家を取り壊してもらうことにした』という。事情はいろいろだが,自力で何とかできる人は少ない。胸の痛むケースが多い。
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