有限会社 三九出版 - ☆特別企画☆――東日本大震災       声かけて手をつなぐ地域力


















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                 声かけて手をつなぐ地域力
                         稲邊 妙子(岩手県一関市)

◆人生最大の恐怖の日に
 揺れてる座れば揺れる。あの恐怖の日から半月が経つというのに常時体の揺れで不安定。時折たまらない気持ちに襲われ,めまい,動悸が続く。縦横に映しだされるテレビに,血眼になってかじりついた日々の疲れも重なったためかと思ったり。正(まさ)しく超巨大型震災の後遺症。自分流の病名である。
 3月11日(金)午後2時46分,三陸はもとより東北関東に壊滅的被害をもたらし,目を覆うばかりの惨状。あの時の私は居間で新聞整理に夢中であった。突然の音と共に大きな揺れに,普通ではないとばかりに玄関へと,かろうじて這いながら長靴と帽子で外へ。いつもより揺れ方は横に長かった。あちこちの木々も電線,アンテナなど,なかなか揺れは治まらず,私も一緒に揺れていた。家の前の道路には大型トラックが2台。あたりには乗用車,軽トラ,みんな立ち往生のていであった。
 そのうち誰彼と寄り集まってきて,怖さを語り始めたのである。
「あゝ,終りかと思ったや。家もつぶれっかと思ったけど大丈夫でまずは安心。こんな目にあったの、初めてだもの。」
「今度揺れたらどこさ逃げんべや,安全なとこってどこなの。あゝ困った困った。」
「この分では相当大きな津波だべよ。」
「とにかく家さ行って見っから。」
「あの人どうなってっか,まがって見っから。」
と各々近所の安否を確かめる人,動静を確かめるなど恐々と自宅に戻ったのである。集まった中でも最高齢のAさんは大変なショックで顔面蒼白,体も足も小刻みに震えているのが私にも分かる状態。未だにその恐怖から立ち上がれずに医師からのケアを必要とする生活である。
 余震はなかなか治まりそうもなかったが頃合を見て徐(おもむろ)に外回りをする。屋根瓦が砕け落ちる。五重の塔やブロック塀の破損被害甚大であった。室内は神棚仏壇をはじめ,ずい分と物が散乱,ガラス陶器類の片付けは早急にしなければ危険な有様だった。
 午後4時頃だろうか,子から孫から,安否を気遣う携帯がつながり,大丈夫だったね。あっホッとしたと手短に話をし,お互いに大きな安心を。携帯のおかげで,その夜のうちに東京の孫とも暗闇の中で無事を喜び合うことができた。耐える力と明日からのエネルギーを感じた一夜であった。
 着のみ着のままの姿で,眠れぬ恐怖の一夜を過ごし,穏やかな光りの朝を迎える。地元,森燃の青年がいちはやく「何か困っていませんか」と,笑顔で見舞ってくれ,ガスはすでに使用できる状態で大助かりであった。ここにも頼れる若者の存在ありと心強い限り。ぼちぼち福祉に携わる方々から「避難場所へ」の声もかかるが,力を借りながら1人でがんばることにする。
◆ないないづくしの生活
 物のあふれる生活から一変して,水なし電気なし食材なし,おまけに電話は切断と,見通しのない不安の中で時だけは過ぎて行く。
◎第1は食の確保
 早速みなさん方からの差し入れが続き,あったかおにぎりのご馳走にあずかること数日。ごま味,海苔味,魚味と,いろんな味をかみしめる。ある時は梅干しおにぎりが梅がゆになったり,まるい形のおにぎりが板おにぎりになったり(湯たんぽと一緒に床の中で)。1粒も無駄なくいただく。何倍ものいい味。
 すいとんにするばかりに程よく練りあげたものを届ける人もあり,昔懐かしい煮あげ餅にしていただく。カボチャ入り,マカロニ入りのカレーにもあずかる。料理研究にもなり不自由さの中にも幸せを感ずる日々であった。昼食はもっぱら備蓄しておいた麺類中心の食事でまかなったが栄養バランスを考え,野菜や焼き魚,揚げ物などもご馳走になり,多くの方々の厚い親切心に頭の下げどおしの数日が過ぎていった。
 物資の他にも嬉しかったことは,親戚や近所の方々から朝夕,「大丈夫」の声がけはとてもありがたく身にしみる支えであった。




◎第2に断水対策
給水車からの水運びも多くの方々からお世話になり大助かりであった。私は2回程,給水車へいただきに行ったきり。「神様からの水だから」とわざわざ軽トラで運んで下さった親戚もあって本当に感謝であった。防災の皆さんは,寒波の日雨の日も防具に身を纏(まと)い一生懸命であった。そこには,かつての教え子達の姿も見られた。何日も続
いた断水期間であったから大変なご苦労である。久しぶりに長蛇の列を見る光景でもあった。地域こぞっての助け合い,人と人との絆の強さや大切さをひしひしと感じた毎日だった。
◎第3として明かりと暖をとる方法
 昔の石油ストーブ,ろうそく,懐中電灯が役立ったが,後で分かったことは,ランタン石油ランプも使用されたとか(ランタンはケーズデンキ,ホー
マックでも販売)。今は品切れだけど注文中であると確かめたばかり。
 暖かくする方法は,首にタオルやマフラーをまいたり,体のあちこちにホッカイロを。次には湯たんぽの利用。ペットボトル数本にお湯を入れ,タオルに包んでこたつの中に,ふとんの中に入れる。今回初めて知ったことは,ホッカイロを布におき(2,3枚)枕のような感じにして湯たんぽ同様にこたつやふとんの中に。優しい暖かさで今も節電になり重宝している。公民館へ携帯電話を充電に行った折,近所の知人から教わった(ホットカイロ小枕)。ペットボトル湯たんぽは私から彼女へ伝授。人の集まる所に学びありとは正にこのこと。
◆ないないづくしから得たもの
 16日夜電気が,17日水も出て入浴も久しぶりに。テレビも見られる。こうなっても電話はつながらない地域が多く,気になる関係者の安否に言い知れぬ不安が募る。救援隊ボランティアの方達の派遣活動と共に,被害の大きさが日を追うごとに判明。新たに放射能の問題も加わり,テレビを見ては涙することのみ多くなる。
 しかし,こんな中でもほのぼのとした明るく人々を勇気づける報道も。赤ちゃん誕生の話題や,避難者への歌で励ます子供達などたくさんの嬉しいニュースも聞かれるようになる。涙で歌う学生の姿や中高生の姿に感動し,目にハンカチの被災者の皆さんが映し出される。画面にくいいる私も,そしていつも私を見守る仲間のみんなも涙である。
 気が付けば,長蛇の列がここんとこ灯油,ガソリン不足のため,前代未聞の車が何キロもの長さに。これも噂では,もう少しの辛抱らしいとか。日毎に店も再開。往来も元の町をとり戻しつつある。思えば,今回の天災は内陸とはいえ,程度の差こそあれ,多くの気付きから教訓を得たのである。普段から防災の知識を高めることや近所付き合いを密にして暮らす大切さ,更に非常時持出袋の点検と入れ替えなど,毎日を振り返り思う。3年も前のカンパンや豆類では食材にはならなかったから。災害は忘れた頃にやってくる。合点である。
◆「声がけ」で人も我も元気に
 私は10代からの友達を失い行方不明の友も。現実である空しさ,こんな日が来るとは夢々思うこともなかった。辛くて悲しくて悔しくてこれ以上の言葉は見つからない。亡くなった彼女は学生の頃から常に生き方のモデルとして存在感のある人だった。幾度もの大病も乗り越え,また火事にあうなどの苦境にも負けず,不自由な体になった最近まで地元の子供達に数学を指導していた。すぐにもとんで行って手を合わせたいけどそのすべもない今。やるせなくてもどかしくて無力感をどうすることもできない。
 わが町は,今回の震災でも大きな被害はなかったが,心の病んでいる人達はまだまだ多い。余震の度にあの日の怖さにおののくAさんは食欲もなく元気もない。ないないづくしのあの日々,みなさんからの声がけが何よりの薬だったことを思う。「少し食べてよ,寝てばっかりでは弱るから。」私の日課である声がけで,今朝のAさんの手は温かく笑顔も見られる。久し振りにやわらかな春の陽の朝。「できる人が,できる時に,できることを」このことを誰もが胸に楽しく安心安全な地域でありたい。
 花泉のごく限られた範囲での事実の一端を記録することで,被災者の皆さんへ心が繋がることを念じて。
 岩手みんなのうたをかみしめつつ……。
   手と手 つないだら 悲しみは半分に
   手と手 分け合えば 喜びが倍に

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